真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

2018-09-01から1ヶ月間の記事一覧

自由の人と自由の人が、お互いの自由を認め合う世界。

私は毎田先生の、この表現が大好き! 彼が愛するものとは絶対自由の存在である。 何ものにも縛りつけられていないものである。 ただそこに自由の生命と生命とが触れ合い、輝き合い、 火花を発して、永遠の生命の大交響楽を奏でているのみである。 ~ 釈尊に…

自力の亡者は憂い顔。絶対他力の人は明るい顔。

自力の亡者は憂い顔。 いつも何か心配している。 いつもなにか不満気。 「ああなったらどうしよう?」 「こうなったらどうしよう?」 「どうしてうまくいかないの?」 「こんなに頑張っているのに。」 「ついてないな。」 なにもかも思い通りにならないと嘆…

苦悩に明け暮れて、解放されない世間の生活。

私たちは人と人との関係に、 毎日あくせくして、 苦しんでいる。 そんな地上の生活にへばりついて、 その中でどうやって無事に過ごそうかと、 限られた智慧を働かせている。 その狭い世界から外に出てきさえすれば、 からりと明け放たれた、 爽快な世界に出…

無常の真理を生きる人は、あっさりさらさらと行く。

無常の真理を生きる人は、 なにも「こうすべき」ということがないから、 いつも真理に従うことができる。 「え~そんなはずじゃなかった~!」 「なんて、わたしはついてないんだ~?」 「あの人全然わかってない!」ぷんぷん なんて嘆いたり怒ったりするよ…

煩悩は自然なことで悪じゃない。唯一の悪は、自力的な執着。

仏法でいう悪っていうのは、 執着のこと。 そしてそれに気づいていないこと。 執着というのは、 「これはこうあるべき!」っていうふうに、 物事を固定して、 それを押し通そうとすること。 本当は、絶対的に 「こうあるべき!」なんて 固定できることはな…

自分の愚かさに目覚めることこそが智慧

敵を設定するのも、 迷いの心から。 怒りが生じるのも、 迷いの心から。 それを知りさえすれば、 怒りからも争いからも 離れることができる。 解放される唯一の道は、 自分は迷いだらけの愚か者だという、 その自覚だけ。 自分には智慧がある。 自分には理…

欲望は欲望に任せておけばいい

私たちは迷っています。 いつだって。 だから、私たちの欲望も、 その迷いから生じる欲望。 いつも揺れ動いている。 なので、本当はそこに 執着すべきものなんてない。 確かなものなんてない。 これは真実だ!なんて、 主張すべきものはない。 確かなものは…

わたしたちはいつも自分を棚に上げている。

世間はうそいつわりの世界ですって。 そのことこそが真実だと言われる。 うん、そうそう。 まったく、人間て自分の妄想に気づかず、 自分が正しいと思って、 世間を見下ろしてるんだよね。 他人のことばかりああだこうだ言って、 全く自分が見えていない。 …

迷ってばかりで、なにもわかっていない自分だと気づいて、そのままに生きなさい。

未来をあてにせず、 過去に捉われず、 新鮮に初心に、 今ここに生きるだけ。 そんな生命の赤裸々な姿。 う~ん、まぶしい!! °˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖° そんな人は妄念になんの捉われもない。 「妄念」とは? これがなんと、 私たちの心の動きすべてだと言われる。 そ…

未来をあてにし過ぎない。過去にこだわり過ぎない。

未来へ未来へ・・・と望みをかけ過ぎると、 まだ来ない未来への願望で 頭がいっぱいになって、 今がお留守になってしまう。 過去のことを思い出しては、 「あのときはああだった。」 「このときはこうだった。」と、 振り返ってばかりも、 今がお留守。 これ…

いのちのままに、欲するままに、心を自由に遊ばせる。

いのちのありのままに生きること。 そこには心の調和がある。 欲望もすべて、 真理の作用と認識すれば、 何も慌て騒ぐ必要はなくなる。 思想的な枠にはめ込もうとして、 「こうしなければならない!」 「そのためには努力を、がまんを、しなければならない…

思想は人を高慢にする?

思想も固定なんだな。 一定の思想に捉われると、 無常そのものを捉えられなくなってしまう。 自分の思想をもちだして、 それと照らし合わせて、 現実というものを規制しようとしてしまう。 思想に合わないものを排除しようとしてしまう。 でも、現実は無常だ…

目的を定めてそれに向かって努力することも捉われ?

私たちはよく、 目的を定めて、それに向かって努力する。 でも、目的を決めるということは、 もうこれは固定なんだな。 だからその目的に向かっていくための、 いろんな考えや努力も、 固定に向かっていくものになってしまう。 その固定はとらわれとなる。 …

うまくいくとかいかないとか、そんなことは超えていく。

物事がうまくいくかいかないかに、 私たちはこだわりすぎてしまう。 どうしたらうまくいくかと、 あれこれ考えて、 努力して、 それでもうまくいかないと、 「こんなにがんばったのに~」と、 絶望する。_| ̄|○ でも、真理はうまくいこうがいくまいが、 そ…

「こうしなければならない」という当為が人を苦しめる。

人は、自分の勝手な妄想で、 「これはこう!」と決めつけて、 思い通りに動かそうとして、 しかも思い通りにならないと言って怒る。 でも、本当は、 物事は、人は、 ただ因縁によって動いていく。 変化していく。 いろんなことが組み合わさって、 いろいろに…

物事に実体なんてない。鏡の裏に何もないように。

あるのは、そこに起こっている現象。 ただそのままの現象だけ。 その裏に何か実体があると思うのは、 私たちの妄想。 小さい子どもが、 鏡の裏をのぞいて、首をかしげているようなもの。 あるのは鏡に映った映像だけ。 それなのに、 ああでもない、こうでも…

思い上がりこそが自由の邪魔をするもの。

お釈迦様がどうして、 自由自在に思いのままに生きられたか? それは、思い上がりを打ち砕かれたからなんだな。 世界の無常の流れを見つめて、 その真理から一歩も離れないで、 世界と一体になられた。 そこには主観的妄想の、 思い上がりのかけらもない。 …

思い上がりが打ち砕かれない限り、真理は認識されず、欲望からも解放されない。

私たちの欲望のもとは無知だと言われる。 流れる真理を固定して捕まえようとする、 捕まえられると勘違いしている、 その無知だと言われる。 これが思い上がりなんだな。 スッタニパータでは、 この思い上がりが「弱い葦の堤」に例えられる。 これほど、私…

次から次へ起こる欲望のもとは、支配欲・所有欲

欲望は止まらない。 死ぬまで止まらない。 一瞬も止まらない。 ひとつ叶えば次から次へ。 欲望は生きる原動力でもある。 この欲望を、 スッタニパータの中では、 激流に例えられる。 苦しみのもとにもなるこの欲望の激流を、 涸れさせるには・・・? その行…