もういいから。息をしているだけでも・・・
自分の心の中をのぞいているうちに発見した、気になる自分について書いてみよう。それは・・・
誰かに認められることを期待して何かしようとしている自分。
誰かに認めてもらうことで自分の価値が上がるような気になっている自分。
誰かの期待に応えないと、自分の価値が下がってしまうような気になっている自分。
何もしないでいると、どんどん自分の価値が下がっていってしまうような焦燥感に駆られている自分。
そして「なんだ、私ってこんなダサかったのか~。」とがっかりする自分。
その後、自分に言い聞かせてみた。
「いいかい?ポチくん!君が何をしたとしても、何にもしなかったとしても、君の価値にはまったく変わりはないんだよ。」
それからまた考えた。
ところで、この「価値」ってなんだ?
それすらもはっきりしない。自分の頭の中で勝手に作り出して、自分で勝手に設定したものだ。
それってつまり、自分で自分に振り回されているってこと?
自分で自分のことが信用できていないってこと?
そして考えているうちに、振り回す「自分」と振り回される「自分」と信用できない「自分」と、信用してもらおうとがんばる「自分」と・・・って「自分」がいくつも出てきて、なんだかわけがわからなくなってしまった。www
こんなこと考えるのは私だけ?
人々がとても愛しいのに、彼らの避けがたい悲しいことも、もうそのままで仕方がないと思う。仕方がないと思うのに、辛くあってほしくない、嫌な思いをしないでほしいとなにより強く願う自分もいる。そして、こんなふうに矛盾を抱える自分すらも、仕方がないと思う。
こうして、自分の人生がそもそも逃れようのない『苦』であると認めてしまったら、それと同時に立ち上がってくるのが、逃れようのない『幸福感』だった。
わたしは自分に、息をしているだけでも、いいよ、いいよ、と思っていてもらえる。ほとんど無条件に、すごいね、がんばってるね、どんなにすごいか知ってるよ!と言ってもらえる。だって、生きてるだけで苦なのだから、それをこなしているのだから。おまえ、しゅごいね・・・!と思っている(ホント笑)
失敗すれば失敗した日にこそ、自分というわが子を愛しく思う。失敗に落ち込む頼りない自分の姿は、わたしの目には守って慈しんであげたい存在に見える。わたしはわたしに、こんなに駄目なやつなのに愛してもらえる。
生きているだけで、素晴らしいと思える。
わたしは幸せだ・・・生きているだけで幸せだ。それは、自分が少しでも苦のない人生にしようと思っていた頃には見えていなかったもの。苦を認めなかった頃には、わからなかった感覚だった。
今はこの世が苦であること、自分がこの苦の中にあることに、完全に諦めている。そこに生まれて、良かったねと思う。生きるってすごい経験だ・・・
ホントに自分は自分の我が子みたいだな。
「お~成長したね~」って眩しく思えるときもあれば、「いつまでたってもおバカさんだね~」って呆れるときもある。ぐるぐる考えすぎて何がなんだかわからなくなったりもする。そんな自分に今日は私も言ってあげよう。
「もういいから。息をしているだけでも・・・」
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