真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

いいも悪いも賢いも愚かも上も下もわからない。

今日の朝ドラで、生前葬というのをやっていた。

初めは「え?」って思ったけど、観てたらやりたくなっちゃった。

 

最初によわい80のいつ死んでもおかしくないと言うおばあちゃんが、白装束に身を包んで出てくる。

「死んでしまったら、みんなに感謝の気持ちを伝えられないから、生前葬をやることにしました。それでは始めましょう!」と自ら挨拶をして、棺桶の中に横たわる。

そして、お経をあげてもらってから、参列者の中から何人かが仏壇の前に出てきて、弔辞?のようなものを述べる。

でも、本人はまだ生きているので、「そうねえ~」とか「ありがとう」とかつぶやいたり、うなずいたり、微笑んだり、突然起き上がったりする。

そして、娘たちからの言葉も・・・これには、感動の涙・・・涙・・・(´;ω;`)ウゥゥ

最後は棺桶から出てきてご挨拶。

「今日は本当によかった~。みなさん、ありがとう~!」と。

みんな笑顔で終わりました。

 

憧れるな~生前葬

生きているうちに会いたい人に会えるし、言いたいこと言えるし、

楽しそうだし・・・( *´艸`)

 

”死のことを考えているときは、まぎれもなく生のことを考えている”

きょうのミユさんの記事です。

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植物たちはこうして春の陽を浴びて育ちながら、ひたすらに枯れる時に向かっている。これは悲観的なのではなくて、ひとつの真実だと思うのだ。

 

元気なときは、その元気が収束する状態を含んでいる。笑いは悲しみを含んでいる。受精は死を含んでいる。生きているということは、死を含んでいる。

 

これを、縁起でもない、とか、悲観的だ、とか、ネガティブ思考だ、と拒絶する前に、まっすぐに虚飾なく見てみること。こういう心の遊びがわたしは大好きだ。ついついやってしまう。

 

特に多く考えるのは死のことだ。毎日自分が死ぬことを考えている。死のことを考えている時は、まぎれもなく生のことを考えていることがわかる。

 

そして、私はこういう見方が大好き!

こうしたことはなにかが起こったときにも同じで、良いことには悪いことが含まれていると知っていると、その逆の見方もできる。そうして生まれたそれらの真ん中に立った視点から動いてみるとき、その行動からは喜びや感謝が生まれるのだと思う。

 

強い喜びには強い悲しみが、相互に含まれている。これを知覚している人は賢者だと思う。

 

ものごとには悪く見えることこそ良いことがあって、良く見えることこそまたそれとは反対の面がある。このことを余裕を持って眺められる視点を持つということは、人生のあらゆる要素に新たな観点をもたらすのだと思う!

 

記事の中にいろんな例が出てくるので、是非読んでみてください!

 

こういうふうに見るなら、何がよくて何が悪いとか、何が賢くて何が愚かとか、誰より誰が上とか下とか、そういうのが全くわからなくなる。

 

聖徳太子の言われる、「賢愚なこと鐶(みみがね)の端無きが如し」だ。

どっちが上でどっちが下とか言ったって、まあるいわっこみたいに、つるんと回ってひっくり返れば、上下が逆になっちゃうのだ。

 

その一部だけを見て、これはいいとか悪いとか言うより、全体の調和を楽しみたいな。

↓(これも読んでね!)

yumbe2525.hatenablog.com

 

こちらは、 欲張りな人の死に様 ↓

yumbe2525.hatenablog.com

 

 

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