真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

この世界はすべてが必要不可欠の要素としての一大交響楽

何かをあてにするのはやめてこの交響楽の響きを聴け!

~最上のものの経より⑧~

803-8

彼らは何も当てにせず 

何かを取り出してあがめもしない 

色々の教さえも彼らは受けない

このように道に達した人達は 

徳行などを人生の筋道として生きてはゆかない

このような人は既に彼岸に渡って 

もう帰っては来ない

 

毎田先生の解説に打ちのめされた!

私なりに要約してみよう。

 

この世になにも当てにしない。

物も人も自分自身も。

 

それが善くなるとか、悪くなるとか、

そんなことを問題にしない。

 

この世はどこまでもこのままで、

半面がよくなれば半面が悪くなる。

 

すべてが必要不可欠の要素として

一大交響楽を奏でているのだ。

 

汚いもの、醜いもの、悪いもの、残酷なもの、ドロドロしたものが、

清らかなもの、ピュアなもの、美しいもの、気高いものと共に

奏でる交響楽を聴こう!

 

そのなんとすばらしいことか。

 

そこには何かを当てにするなんていう、

ケチくさいしみったれたことはない。

 

そして、特別に誰かをすばらしい人だといって、

取り出してあがめない。

 

共に凡夫としての私たちはみんな兄弟。

同じ人として肩をたたき合う間柄。

 

この人はすばらしい善人だとほめたたえたって、

その裏には大悪人の相がある。

 

この人は大悪人だと嫌ったって、

その裏には大善人の相がひそんでいる。

 

この人はすばらしく賢い人だといったって、

どこかですっとぼけている。

 

聖徳太子の十七条憲法にあるように、

賢く愚かなること鐶(みみがね)の端無きが如しだ。

(丸いわっこにははしっこがない)

 

賢いこと、愚かなことが複雑に絡み合って成り立っているのが、

人間であり、この世界なのに、

その一部を取り上げて、

崇めるのはおかしなこと。

 

崇めるなら、みみがねの一部でなくて、

みみがねそのものを、

オーケストラの一部でなくて、

全体の響きを崇めよう!

 

そこにある生命そのもの、

真理そのものを認識しよう。

 

そのためには、

自覚者の自覚の言葉を歴史的に聞くことは必要だけど、

それを聞いて、

一なる真理を認識するとき、

それが徹底して、

真理そのものとなり、

真理を生きるとなれば、

そこにはただ真理があるだけ。

 

教えを受ける自分もいなければ、

教えを授ける師もない。

 

そんな相対的なものは何もない。

 

そして、徳行すぐれた人として、

お釈迦様を崇める世間の人たちの脳天に、

一撃が加えられる。

 

お釈迦様は、

「徳行」などというものを

人生の筋道とはしていないと。 

 

そして、最後に言い切る。

「もう帰っては来ない」と。

 

ここまではっきりと言ってくださっている。

 

 

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