真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

支配欲のないところに争いはない~平和への道・スッタニパータ

杖をとりあげるから、恐怖が生じる

~スッタニパータ・杖をとりあげるものの経より~

 

935-1

「争う人々を見るがよい 

杖をとりあげるから 恐怖が生じたのであるー

私は世間の悲惨を見て 強く心を動かされたが 

そのとき感じたままを 

これから話してみよう

 

これは、杖をとりあげるものの経 の最初のガーター。

「杖をとりあげる」っていうのは、

相手をやっつけようとすることなんだな。

 

このガーターを読むと、

「お釈迦様は、ご自分の国が滅ぼされるのも黙って見ておられた」

というお話を思い出す。

 

そのときは、なんだか薄情な気さえしたけど、

 

「強く心を動かされた」というお言葉と、

「なにもしなかった」ということに・・・

なんだか、グッときてしまう。

 

お釈迦様は、世間で繰り返される争いごとを、

そして、そこから様々な悲惨が生じるのを、

じっと、なにもしないで、

どれほど心を痛めて見てこられたんだろう?

 

 

「争い」にもいろいろある。

小さなけんか、言い争いから、大きな戦争まで・・・

 

「争う人」っていうのは、

相手に、自分の方が正しいこと、

自分の方が強いことを思い知らせて、

支配しようとするんだな。

 

支配しようとして、杖をとりあげた瞬間に、

「もしかして、自分もやられるかもしれない」

っていう恐怖が生まれる。

 

 

支配欲には恐怖がつきものなんだな。

人を支配しようなんていう気持ちの少しもない人には、

恐怖もないんだな。

 

でも、私たちは、だいたい、 

「あっちが先にやってきたから悪いんだ!」

なんて言って、自分は悪くないと思っちゃう。

子どものけんかにもよくあるように。

 

毎田先生もおっしゃいます。

「おそろしいから武器をとる」これは無内省。

いい子になって甘えている立場だと。

 

内省の立場は、「武器をとるから恐ろしくなる。」のだと。

 

そして、その恐怖からは、さらに、さらに、

いろんな悲惨が生じる。

 

うそ、へつらい、だまし、駆け引き、おどし、裏切り・・・・・・

 

戦争についても、

「これほどの愚劣事を現に行いながら、それを悔い改めることも知らないで、いくら人間の栄光を讃えたところで無意味だ。」と・・・

厳しいおことばです。

 

自分の一面的な考えだけを真実だって思い込んで、

相手におしつけようとすることは、よくあることだな。

 

自分では、正しいことをしていると思い込んでいるから、

それが悲惨のもとだなんて気づかない。

 

でも、結局、支配しようとして、

振り上げた杖は、自分に振り下ろされる。

気づかずして・・・

 

こわいよ~!!

またまた、スッタ・ニパータ、こわいです。

 

そして・・・おどろくことに・・・

 

「剣を取る者は剣で滅びる」

と、キリストも言われたそうです。

 

「武器をとる者だけが恐怖をいだく」

と、ガンジーも言われたそうです。

 

すごいな~!

同じことを、お釈迦様は、

2500年も前に言われてたんだな。

 

それなのに・・・それなのに・・・

 

こんな偉人たちが、

人生をかけて残してくださったことばを無視して、

私たちはいつまでもいつまでも、争い続ける・・・

 

この大先輩たちの、真実のことばに、

耳を傾けさえすれば、

本当の平和が実現するかもしれないのに。

本当は、みんなそれを望んでいるはずなのに。

  

 

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