真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

見返りは求めない、「ありがとう」さえも言わない?

報酬や返礼に捉われない、駆け引きなしの自由

~スッタニパータ・バーラドヴァージャの経より~

 

「あ~、こんなにしてもらっちゃって、何かお礼しなきゃ!」

 

「あれ?あの人、ありがとうも言ってくれない。

やってあげて、損した気分・・・」

 

そんなふうに思って、

心がざわざわしちゃうことってある。

 

結婚式・・・お葬式・・・

「いくら包んだらいいかな~?」

「〇〇円じゃ少ない?ケチだと思われるかな?」

「でも、〇〇円となると、痛い出費だな~」なんて・・・

 

お祝いの気持ちや、

お悔やみの気持ちそっちのけで、

自分のメンツを立てることが優先になっちゃう。

 

 

さて、バーラドヴァージャは、

素敵なお話をしてくださったお釈迦様に、

お礼として、お食事を差し上げようとする。

 

すると、お釈迦様はこんなふうにおっしゃる。

 

81-6

詩を唱えて(教を説いて)与えられる物を 

私は食べてはならぬ

真理を見る者にとって バラモンよ 

これはしてはならぬことである

詩を唱えて与えられる物を 

自覚者たちは斥けられる

真理の存する限り バラモンよ 

そこに生活の仕方がなければならぬ

 

82-7

そして迷いと執着とを離れ 

悪行を鎮めてしまった完き人ー

何ものも侵すことの出来ないその人には

それとはすっかり違った食べ物と飲み物とで仕えねばならぬ

そうすることこそ優れたよい働きを得たいと思う者にとって 

それの生れて来る田地なのである

 

 これを読んで、考えこんじゃいました。

 う~~~~~ん???

 

いいお話を聞けて、うれしかったんだから、

お礼したくなるのはあたりまえじゃないの?

 

せっかく用意してくれるっていうんだから、

いただいておけばいいのに。

 

と、思いながらも、

いろいろ考えさせられちゃった。

 

 

絶対自由の人は、

他人の絶対自由も認める人。

その人の自由を、

どこまでも尊重されるお釈迦様は、

なにかのお礼として物をもらうということがない。

 

誰かと、相対関係や交換関係に陥るのは、

迷いや執着のもとで、

それが、束縛や捉われになることを、

避けられるのかな?

 

誰かになにかをしてあげるときは、

ただ純粋に、

「してあげたい」という気持ちからすることを求められるんだな。

 

お釈迦様は、托鉢にまわって、

食事を与えられても、

「ありがとう」も言われなかったというお話を聞いたことがある。

 

そのときは、「え~???なんで~???」

ってびっくりしたけど・・・

 

おしゃかさまのお話は、

ただただ、慈悲からくるもので、

それで何か報酬をもらおうなんて、

夢にも思われないんだな。

 

だから、相手に対しても、

そうであることを求められるのかな?

 

そして、逆に、何かを要求されるときも、

なんの遠慮もなく、

なんのへつらいもなく、

また、しくこく強いることもなく、

率直に、あっさりと、要求されたそうです。

 

その人が、それに応えるか応えないかは、

その人の自由に任された。

 

応えてくれないからと言って、

うらむこともなければ、

悲しむこともない。

 

応えられないのなら、「できません。」

と言っていいどころか、

そうはっきり言って欲しいと思われていたんだな。

 

断られても、お釈迦様は、

「ケチなやつ!」「フンッ!」

なんて、不機嫌になることもなく、

「あ、そうか。」と言って、

あっさりと去られるんだな。

 

 

毎田先生の本で、

「よいことと思うようなことも、

鼻をかんだティッシュをゴミ箱に捨てるようにしなさい。」

みたいなことを読んだことがある。

 

「誰かのために~」なんていうのも、

独立していない、相対関係に捉われている人の言うことばだと。

 

うん、私もよく使ってます。

「〇〇のためを思って~」なんて・・・

 

そして、失礼な、

利己心の押しつけみたいなこともよくしちゃいます。

 

気づかずしてしてしまうな。

 

 

 

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