真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛

「自己肯定とは、自己肯定をやめること?」 

「はあ?」

「どゆこと?」

 

それをあんな言葉、こんな言葉で、丁寧に説明してくださるのがこちらの記事。

まあ、わかってもわからなくてもいいんだ。

 

もう、とにかくいい!

なんでもいい!

 

こうじゃなきゃダメってことがなんにもないんだから・・・

 

「え~?え~?なになに?ますますわかんない~」って?

そうそう、その調子!それでオッケー!!

 

では、読んでみよう!

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わたしが思うに、自己肯定の一番の肝は、自己肯定しようとするのをやめること、だ。やめちまうんかい!と思われてしまうかもしれないけれど、本当にそうなのだ。

 

あ~!なにも肯定するものなんてなかった!と気がついたのだった。そう気がつくと、肯定と否定はどちらも解け去ってしまう。肯定と否定はセットになっていて、否定を生めば肯定も生まれ、肯定を生めば否定も生まれる。肯定否定ごっこなんだな、幻なんだなあ~と思って、はにゃ~と力が抜けた。

 

でもあえて言葉で書こうとしてみると、自己肯定って、「自己肯定できない自分を肯定しちゃいましょう!」ということだと言ってもいいと思うのだ。
そうすると、そこに「やること」なんてなかったとわかる。

 

「無私」とか「無我」とかいうのはこういうことなのかな?

もう、もって回る「私」とか「我」というものがなくなれば、楽ちん楽ちん!

自由自在。なにしてもどうしてもいいんだから。羽根が生えたようだね。

 

そんなふうに思えない?

ならば思わなくたっていいのだ~。

 

自己肯定なんて、できなくていいじゃないか・・・
あれこれダメだと思うままでいい。

 

変えたり解決したりすることなんて、どこにもない。手放しで、監視をやめていい。批評をやめていい。

 

なぬ?!監視をやめられない、批評をやめられない?いいのそれで。ええのんよ。(こういうときの関西弁ってなんか優しいな・・・

 

変えてもいいし、変えなくてもいい。

解決しなきゃいけない問題なんてなにもない。

いやいや問題だらけ!問題の山積み!って言うなら解決がんばって!

監視したけりゃ思う存分したらいいの。批評したけりゃ思う存分おやりなさいね。

え~やだやだって思うならやめたらいいし。

もうどうでも、好きなよ~うにどうぞ!

「え~?いいの?それで?」

「ええのんよ~」ムフフ・・・

 

ちゃんと生きていないとか、人とうまくやりとりできないとか、なにかが怖いとか、いろんな思いで苦しんでいたら、そんな自分も眺めてみよう。

 

わたしは、そういう自分を見ると、なにかをうまくやれる自分よりも可愛いと思ってしまう。だめな子ほど可愛い、みたいな感じで。。。生きにくさを抱えたままで生きている自分に、慈悲や慈愛を感じてしまう。
きっと人は、完璧じゃないから愛しいんだね。完璧になったら自己肯定できる、と考えていると、それは一生不可能である。

 

「あ~バカだな~」とか、

「考えすぎなんだよ~!」とか、

「全然わかってないじゃ~ん?」とか、

「あ~わたしって一生このままかも・・・情けない・・・」とか、

「うっ・・・うっ・・・もう、どうしたらいいのかわからない・・・」とか・・・

 

とにかく、ただただそんな自分を楽しみなさいな。ってことですね?

 

いやいや楽しめません?

じゃ、楽しまなくともええのんよ~!

好きにしなね~!

 

 

投げやりではないの、これも愛なんだな。きっと・・・

 

 

 

なぜかこんな歌が出てきちゃった!(;'∀')

 

♪ これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛 ♪

 

では、きょうも歌って終わります~(^^♪ 

 

 

♪ こ~れ~も~愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛 ♪

 

 

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