真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

納得するってこういうことか~!

 

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自分のことを根性があるとは思わないけれど、わたしは自分で納得のいかないことをするのが大嫌いだ。この世で一番嫌いなことのひとつだ。
だから、自分が「ああ二時間もかけて書いたのだし、もうほとんど書き終わっていたのだし、今朝は5時起きで今も熱があってヘロヘロなのに、しかも内容は好きなのに、今の気分に合わなくなったというだけでなんで消さなあかんねん」と言ってきても、それに負けないでいたいと思う。完全に自己満足の世界だけれど、心残りを作るのが嫌なのだ。

 

うん、私の場合・・・一体何がしたいのだろう?

私は何に納得するんだろう?どうなれば納得するんだろう?そもそもそこからしてよくわからない。

 

ちょうどいいや。今日はこの、納得ということについて、もっともっと読み込んで考えて書いてみよう。

 

私は、壇珠さんの記事を読んで、いつもいつもかっこいいな~と思う。憧れる。

大きく何度も頷きながら「わかるわかる!」って叫びたくなるし、新しい何かが自分に降りてきて、新しい自分に出会えたような気持ちになって、「こんな自分との出会いがあるなんて!ありがとう!出会わせてくれて、本当にありがとう~~~!」って伝えたくなる。今までなんとな~く感じていたことだけど、ちゃんと見つめたことがなかったことを、丁寧にわかりやすい例や言葉で示してもらうと、「あ~そういうことだったのか~!」ってすごく納得したりもする。

 

自分で納得のいくことをして丁寧に重ねて生きることは、わたしにとってなによりも大切なことだ。
自分で納得がいっていれば、気分は最高だ。誰かに変だと言われても、おかしい、不十分だ、イマイチだ、と言われても大して気になることがない。あらま!と思ってもすぐに忘れてしまうし、気楽なものだ。
クヨクヨすることがないと、次のことも身軽に始められる。

 

”自分で納得のいくことをして丁寧に重ねて生きること”そして、それは”わたしにとってなによりも大切なこと”

そうか?!そうだった!!

 

わたしがデザインして造った家を、たとえば誰かに「好きじゃない、ダサい」「プロに言わせてもらうと、もっとこうしたほうが・・・」などと言われたとしても、わたしは1ミクロンも気にならない。言われたことはないけれど、きっと「そうなんだな」としか思うことがないだろうと思う。そして、わたしにとっては自分の造ったものを最高に好きだぜと思う感覚が変わらない。

 

うん、確かに確かに!

 

そういえば昔、私が書いた童話をある会報誌のようなものに載せてもらえることになって、専門の先生が手直しをしてくれたことがあった。それでちょっと立派な文章になって、「へえ~、こういうのが認められる文章なんだ・・・」って思ったけど、なんだか自分の文章でなくなったみたいで、ちょっと納得いかないというか、変な気持ちになったことがあったな。

 

自分で納得のいかないことをすると、人に何かを言われたときに、気になってしまう。それになにより、自分に心残りが生まれてしまう。ときに人は、自分の納得のいくようにするためには誰の目にもおかしなことをしなくてはならないこともある。でも、面白いことや好きなことは、止められないことだ。

 

 そうなんだよ~!だいたい誰かの言葉が気になっちゃうときって、自分でも自信がないというか、いまいち納得できないままずるずるやっているとき。そうか、それって、なにより自分に心残りがあるときなんだな。でも、自分が「面白い!」とか、「これ大好き!」って思うことをまっすぐにやっているときって、まわりの「なに?この人?」みたいな視線を感じても、「やっちゃうもんね~えへへ!」「笑うなら笑っておくれ~!」みたいに、なんか爽快な気分になる。

 

今からだって、いつからだって、望めばその瞬間から、わたしたちは過去をさっぱり脱ぎ去って新しくなれる。これまでしてきたことへの未練や惜しむ気持ちや積んできたことへの執着を捨てて、「これまでそれを積んだことで変化してきた自分」だけを持って次の瞬間に挑もう!!本当はそれしか持っていないのだから。わたしたちは皆、今の自分しか持っていないのだ。

 

お~!なんて爽快なんだ!

なににもしがみつく必要なんてないんだな。今までこんなにしてきたとか、こんなに積み重ねてきたとか・・・

もう、必要なものはすでに自分になっているんだから!今の自分だけもって次に挑めばいいんだな!

 

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