矛盾だらけの自分を優しく見守ってくれる自分
学校で子どもの姿を見ていると、たまに豹変する子がいる。
Sくんは、低学年のときは暴れん坊で、授業中も教室を走り回って友だちとケンカをしてしまうような子だったそうだ。
そのSくんが中学年で行われるクラス替えと共に豹変した。
私が一番びっくりしたのは、担任の先生がお休みで自習だったとき、そのSくんが授業を進めているのを見たときだった。
ストップウォッチを片手に、時間の管理をしながら、夏休みの思い出をみんなに書かせて、後で全員に発表させるという授業だった。
作文が苦手でなかなか書けない子へも配慮しながら、見事に予定通りの課題を一時間でみんなにやらせてしまった。しかも、なんとも雰囲気がいい。ただ先生の指示通りにというのでなく、自分で考えて気を働かせて動いている。
発表の場面では、みんなが興味をもって友だちの発表を聞いたり、感想を言い合ったりしている。
先生がいてもなかなかこんなふうにはいかないクラスもあるだろうに、もう私はただただ見て楽しんでいるだけで、何も出番はなかった。
とにかくSくんの働きにはびっくりしてしまった。
そのSくんが高学年でクラス替えがあり、また豹変した。低学年の頃に逆戻りしてしまった感じだ。
私はあの去年のSくんはどこへ行ってしまったんだろう?って不思議で、思わず声をかけてみた。すると、「そんなことは忘れた!」と言う。
でも、前の担任の先生と涙涙のお別れをして、そのとき約束した合言葉の話を聞いていたので、そんな話を持ち出すと、だんだん素直さが戻ってきて、そのうち「手紙を書いてきてもいい?」と言い出した。その後前の担任の先生に渡してほしいと言って持ってきた手紙の封筒には、大きな字で「運動会見にきてね。」と書いてあった。
きっとクラスがかわり、担任の先生がかわり、不安なんだな。と思った。だからといってどうすればいいかもわからないし、私に何ができるわけでもないのだけれど、とりあえず手紙は預かった。
人間て環境や人間関係によってこんなにも豹変するんだな。
それはまあ、自分にも思い当たることは多々ある。
だからといって、どっちが本当の自分か?と言われたって、それはどっちも自分であることには変わりない。ただ固定できるものではないんだな。
嫌なヤツだなと思うのに好きだったり、
好きなことなのに疲れたり、
怖いのにやってみたかったり、
好きなのにウザかったり、
矛盾している感覚のどちらもが、ウソじゃないことってある。それに対して、どちらかに答えが決まっていない自分はハッキリしなくてダメだとか、優柔不断だとかいい加減だとか、白黒ハッキリしろとか、丁か半かさァどっちだ!とか、思ってしまうことってないだろうか。わたしは以前、そうやっていつも自分を責めていた。
なにもかにもに白黒ハッキリと答えが決まっているというのは自然な状態ではなくて、その間のグレーなゾーンがあるままでいて良いのだ。同じことへの反応が体調でも変わる。いろんな反応のパターンがあって矛盾を抱えていたり、同時に2つの相反する答えが出てきてどちらも自分の本音だと感じたりするのが、人の自然な状態。それを責めてしまうのは本当に辛いことだ。。その責めから解放されるだけで、とても楽になる。
心が定まらないことを変えようとしても無理なことだけれど、心が定まらなくてもいいんだ、それが自然だもんね。という視点を持つと、この視点の方はちゃんと定まっていてくれる。そうやって、自分に優しいところに定点を置いてみると、「揺れる自分を眺める、揺れない自分」との出会いがある。
そっちのほうが、ずっと楽チンだ!
「揺れる自分を眺める、揺れない自分」かあ~。
そんな自然なままで矛盾だらけの自分を、いつも優しく見守ってくれている自分と出会えたらいいね。
楽チンになれたらいいね。
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