真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

まだまだ知らないことだらけだと自覚して耳を傾けよう

きょうの私はざわざわしている。

壇珠(ミユ)さんの記事から、あれもこれもといろいろ自分の課題が浮かんでくる。

でもざわざわしていてうまくまとまらない。

なので、今一番頭をいっぱいにしている出来事にしぼって書いてみよう。

 

note.mu

 

壇珠(ミユ)さんの記事のテーマとはちょっとずれているかもしれないけど、これを読んで考えさせられたことがある。

 

今わたしは3年生の男の子、Yくんのことを考えている。

Yくんは学校ではいっさいしゃべらない子だ。誰もYくんの声を聞いたことがない。

でも、よくフラッと職員室に来て、身振り手振りでCDが聴きたいと言う。

放送室や音楽室で使っていないラジカセをみつけると目を輝かせる。

合唱曲のCDをかけて何回も何回も聴いている。

 

でも、音楽の授業は担任の先生に連れられて遅れて入ってきたり、途中で出て行ったりする。特にみんなで歌を歌ったり、リコーダーを吹いたりという活動が苦手みたい。

 

つい最近わかったことだけど、Yくんは”聴覚過敏”で、大きな音が苦手とのこと。私は早速その聴覚過敏というものについて調べてみた。そして青ざめた。それは、普通の人にとってはなんでもないような音が、脳に苦痛な刺激となってしまうということ。例えば、普通の子にとってはなんでもないリコーダーの音が、黒板を爪で引っかくみたいな不快な音に聞こえてしまうらしい。

 

そして調べていくうちに、聴覚だけでなく、人にはいろんな特性があって、普通の人なら耐えられることが、ある人にとっては、とてつもない苦痛になることがあるという事例がいろいろ出てきた。それを知らずに無理に苦痛なことを続けると、すごいストレスになって、いろんな症状が出てきてしまうらしい。

 

知らなかった。知らないことがまだまだこんなにもたくさんあるなんて・・・。

 

学校というところは、多くの子が一斉に同じことをするのがあたりまえで、それができないと、努力が足りないとか、我慢が足りないとか、叱咤激励しながらなんとかできるようにさせようとしてしまうことが多々ある。でも、もし、聴覚過敏の子にそれをやるとしたら・・・?ずっとくり返しくり返し、黒板を爪で引っかく音を聞かせているようなものだ。卵アレルギーの子に「がんばって食べれば慣れるから」と言って、無理やり卵を食べさせているようなものだ。これは恐ろしい。恐ろしすぎる。こんなの虐待だ。拷問だ。しかも子どもは自分ではそういうことがわからないのだから、「どうして自分はみんなが平気でできていることができないんだろう?」とか、「自分はよっぽどダメな子なんだな。」とか思ってしまいかねない。

大人がそれを知っていて、「大丈夫だよ。ダメなんかじゃないんだよ。ほかの人より耳が敏感なだけだよ。目の悪い人がメガネをかけるように、卵アレルギーの人がみんなと違うメニューの給食を食べるように、耳栓をしたり、苦しくなったら教室を出て休んだりしていいんだよ。」って言ってあげられたら・・・?そして、少しずつ子ども自身が自分のことがわかって、苦しい時はそれを伝えたり対処のしかたがわかったりできたら・・・?

 

日本では、具合が悪くても、悲しくても、顔にも態度にも出さずに仕事をして、顔で笑って心で泣いて、ということをやれてこそ立派だという考え方が定着している。けれど、自分をその「型」にはめるのは文化的な束縛ではないだろうか・・・そうではなくて、自分の状態を知ること、それに合わせて動くことが自分の流れをスムーズにして、その環境と整合した喜びをもたらすように思う。

 

日本ではこのために、自分がどんな状態でも、一つの正解を体現するべきだと強く信じられている。そのため、考えなしに日本にいると、つい心と体にギャップを持つことを鍛えてしまう。しかもそのギャップが大きければ大きいほど褒められたりする。

これは大変なことだ・・・!ストレスそのものだと思う。日本で育つと、なにを考えるのにも無意識にこれをベースにしてしまいやすい。

 

私はこの部分を読んで、いろんなことが思い当たった。Yくんに限ったことじゃない。どんなに嫌なことでも、嫌と言えずに我慢して無理やりやっている姿をそれに気づかず「偉いね~」なんてのん気に褒めていたかもしれない。それによって、その子はますます本当のことが言えなくなっていたかもしれない。そう考えたら、あれもこれも、あんな事件もこんな事件も、全部全部説明がつく。そうやってストレスを溜め込んだ子が、大きくなってから一気に爆発する。「教師なんていい商売だな。子どもを傷めつけて給料もらって・・・。」とチンピラ少年のついた悪態もごもっともと思える。なんて乱暴なことだろうと思う。

聴覚過敏のお母さんが、赤ちゃんの泣き声が苦痛で、でも仕事で忙しい旦那さんを頼れず、ひとりで抱え込んで我慢してがんばっているうちに、とうとう育児放棄をして、家を飛び出してしまったという記事も読んだ。悲しすぎた。何も知らない世間の人(私も含めて)は、なんて薄情な母親だろうと非難するんだろうな。そんなことを考え出したら、人のことなんて知らないことだらけだなあと思う。知らず知らずたくさんの罪を犯してきてしまった気がする。これからだって。とにかくできることは、自分は知らないことだらけ。わかっていないことだらけ。ということをもっと自覚して、例え小さな子どもの声(声にならない声を含めて)にも、もっともっと耳を傾けていかなければと思う。

 

これに気がつくことができたのは、自分でまずは間違った方向で極めようとしたからだと思う。それがなければ気が付かなかったように思う。乱れは整合の呼び水なのかも知れない。

 

いっぱい間違ってしまった分、それを整合の呼び水にできるかな?じっとじっと耳を傾けていると、相手に対するんじゃなくて、もうそこに自分が入り込んでいって、もう私があなたなのか、あなたが私なのかわからないくらいに融け込んで、あなたの痛みが自分の痛みになって、そうしたら自然に自分から出てくるものが相手に流れ込んで、お互い分かち合えたらいいなと思う。解決になんかはならないかもしれないけど・・・

 

あれ?私なに言っているのか、自分でもよくわからなくなっちゃった。でもそう考えているうちに、なんかざわざわが落ち着いてきたみたい。これで眠れそう。

 

 

☆彡書店開いています!☆彡

 

☆彡 もうひとつブログ☆彡