真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

チャック全開の校長先生がやってきたら・・・

 

今日の壇珠(ミユ)さんの記事は、チャック全開の校長先生のお話。

 

賢いつもりでいて、大事なところを見落としている。

 

 例えば、

何かみつけて、「これやりたい!」と言うと、「それは君にはまだまだ早いですよ。こっちができるようになってからにしなさい。」と言う。

 

「わあ~これ面白そう!」と言うと、「いくら面白そうでも、そんなことは将来何の役にも立ちません。もっと世のため人のためになることを考えなさい。」と言う。

 

そして、算数の時間、頭が痛くなって保健室で寝てたんだけど、体育の時間になったら急に元気になって授業に出ようとすると、「好きなことだけして、嫌いなことから逃げていたら、ろくな大人になれません。」と言う。

 

つまり、せっかくやろうと思ったことを、いちいち先回りして通せんぼしてくるのだ。

もう、この校長先生が出てくると、とたんに面白くなくなって、生き生きと目を輝かせていた子どもの顔は曇ってしまう。

だから、そんな校長先生のお説教が始まったらこう言ってやろう。

 

「校長先生!チャック全開ですよ!」

 

そして、校長先生がハッと下を向いたすきに、逃げよう!

 

・・・で、このチャック全開の校長先生はどこにいるかというと・・・?

 

自分の中にいるんだな。

 

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何よりも先に「うまくいくかいかないか」、を反射的に考えてしまう人、それを考えるのが当然だと思う人はきっと、面白みよりも優先していることがたくさんあって、それがパターン化しているのだと思う。
それを考えることにやり甲斐や面白みがあるのだとしたら最高だけれど、そのためにやってみたいことを自由にやれないのだとすると本末転倒だ。

 

目的はただ楽しむことで、うまくやるためなんかじゃない。

 

自分の自由を奪っているのは自分だけだった、と認めちゃうことが自由を感じる第一歩

 

どんなに弱気な人だって、弱気なままで、信じられないほど単純に自由でいられる。弱気すら言い訳にできないということだ。わたしたちは自由になる権利があるのではない。自由になるのが義務なのだと思う。その義務を怠ると、もれなく自らそれによって苦しむのが人間だ。

 

○この世が自由でなくて制限だらけなことを受け入れよう。それを己が不自由であることの理由にはできない。
○自分を改善している暇があったら未熟なまま動こう。1億年かかっても完璧になどなれない。
○恐ろしくても好きなだけ震えて恐ろしがればいいだけで、動けない理由にはならない。

 

いいかい?ポチくん!

また偉そうな校長先生がお説教する気満々でやってきたら、勇気を出して、

「校長先生!チャック開いてますよ!」と言って逃げるんだぞ!

 

 

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