真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

自分への「裁き」から自分を解放したら・・・?

大事に読み進めていた「そうだ魔法使いになろう!」(by 吉本ばなな×大野百合子)の続きを今日も読んでいる。だいぶ終わりに近づいてきて、なんだか寂しいというか、読むのがもったいないような、終わってしまいたくないような・・・。

そんな気分で、丁寧にちょっとずつ、三歩進んで二歩下がるみたいにゆっくりと、読み返しながら読んでいる。

 

壇珠さんの秘行のお話がちょこちょことあちこちに出てくる。

 

本当の自分自身を正直に生きるには、自分を傷つけた人を許し、自分が無意識に傷つけてしまった他人に許され、なにより本当の自分を正直に生きてこなかった自分を許すことというお話の中で・・・

 

例えば自分をひどい目にあわせた誰かを許せないとしたら、それは裁きの中で生きている。善悪の裁きの中にいると、肉体と魂が交流できなくて、本当の自分を生きることはできない。といったお話が出てきた。

 

自分の不幸を誰かのせいにして嘆いてばかりいる人を思い浮かべる。

こういう人はたくさんいるし、自分はもうそんなところからは抜け出したと思い上がって油断していても、またなにかの拍子にそんな自分がいつ出てくるかわからない気もする。

 

本の中では、この「裁きをなくす。」というところで、壇珠さんの秘行について、「自分を裁かないところまで自分をもっていく行」と書かれていた。

それはごくごく自然に行われることなんだろうな。

無理やり、「許さなきゃいけない。」と自分に思い込ませるようなことではなく・・・

そこへ行けば自然に「裁き」から解放されるんだろうな。

 

「自分はこれじゃダメだ!」とか、「こんなことをしている自分は変えなきゃ!」とか、「こんなこと考えている自分が嫌!」とか、誰かと比べて、「どうしてあの人みたいにできないんだろう?」とか、自分を否定している限り、本当の自分とのギャップの中でぐるぐるしてそこから抜け出せなくなるんだな。だから、そういうとき人はずっと同じ思いの中で苦しみ続けることになってしまう。

 

こうなりたいのになれない。こんなことしたくないのにやらなきゃならない。そんな思いを抱えたままでは本当の自分を正直に生きるなんてできない。きっと、

「自分はこんなふうになれないよな。でもオッケー!」

「こんなことやりたくないからもうやめよ!うん、それでいいじゃん?」

「やりたくないけど、やっぱりやろうかな?うん、それもよしよし!」

そんなふうにどこまでも否定せず、〇✕で判定せず、そのままに受け入れていく。自分を裁くことから解放されたとき、そこには本当の自分が生き生きと正直に輝き始めて、自分にもっともふさわしい新しい道が開けてくるのかな?

 

 

note.mu

 

女性も、それから男性も、どれだけそれによって無駄に傷ついてしまっていることだろうと思う。なぜなら、わたし自身が自分を狭い常識に当てはめて、散々に傷ついたり自尊心を損なったり、自分をひどくダメだと思い込んだり、苦しんだ期間が長かったからだ。

 

 

そんなことにこだわっていたら、それこそワクワクが枠枠になってしまう。わたしは個人的に、女性が好きにすれば良いと思う。そうできずに男性に従わなくてはないなんて、もしくは男性がリードできなくてはならないなんて、そのルールのようなもののほうがどうかと思うのだ。それでは、なんのための時間なのだろう?たとえば男性がリードするのが好きなのよ、という女性にとっては、そうすることがその女性の好きにしていることになるだろうけれど、それも「そうあるべきだから」「そのほうが素敵だから」という常識を真に取っ払ってみたところから、改めてそれを望むのかどうかを感じてみると良いと思う。

 

「こうあるべき」という枠をどこまでも取っ払って、自分が真に望むことは何かを感じてみよう!

 

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