迷っているときもまちがっているときも大切な瞬間
音楽に向き合っている人を見ると、音楽を楽しんでいる人を見ると、わたしの中の音楽魂がムクムクとしてくる。
「音楽は楽しむもの」ということに本当に気づいたのはずっと後のことで、とにかく昔は技能を身につけることに夢中だった・・・
物心ついたときにはピアノを習っていた私は、無口で自己表現ができなくて、友だちもいなくて、これといった特技も他にはなかったけど、音楽会のときだけは、先生から伴奏を頼まれた。それが唯一活躍の場だった。
「ピアノが弾けていいね。」と羨ましがる人もいたけど、決して何の苦労もなしにスラスラ弾けたわけではなくて、実は恐ろしく凄まじいスパルタレッスンを受けていたのだよ。
私のピアノの先生は、とっっっても怖いスパルタ先生だった。
思うように指が動かないと、鉛筆でピシピシ叩かれた。
他のピアノ教室に通っている人の、かわいい花丸や、ごほうびシールの貼られた楽譜とは全然違って、私の楽譜は、4Bくらいの太~い鉛筆のしかもすごい筆圧の線が、ぐっちゃぐっちゃに、嵐か竜巻のように踊り狂っているような楽譜だった。
何度も何度も同じミスを繰り返すと、「おまえの脳みそは腐ってるのか!?」と、
いや、こんなもんじゃない!
「お~まえの脳みそは、ぐざってんのかあああああ!!!」みたいにものすごく大きな声で怒鳴られた。というか、吠えられた。というか、噛みつかれた!\(◎o◎)/!
曲の仕上げの段階になると、途中で間違えたら最初からやり直し!一曲をノーミスで弾けるまで、何時間でも弾かされた。
時にはピアノのふたの両側に本を挟んで、手が見えないような状態で弾かされた。あれは鍵盤の位置を指の感覚に覚えさせて、ミスタッチをなくすための訓練だったと思われる。
レッスン室はいつもいつも先生の怒鳴り声と生徒の泣き声が響き渡っていた。
私は我慢強くて無口な子だったので、あまり泣いた覚えはないけれど、いつも恐ろしくてビクビクしていた。
いっしょに通っていた人たちは、その先生についていけなくて多くの人が辞めていった。
まあ、私も辞めたかったのかもしれないけど、例の我慢強さで、親にも辞めたいと言えずに、結局、小学校、中学校、高校と通算12年くらいその先生のもとに通った。
今考えると恐ろしいことだな~。でも、子どもの頃はなにもわからないまま運命に従っていた。
お陰様で他に特に取り柄のない私にも、小中学生時代までは、ピアノだけは誰にも負けないという特技をもつことができた。だから、今となっては、スパルタ先生は私の恩師だ。
そして、大学に入ってからは、今度はピアノよりも歌を極めたいと思うようになった。歌がうまくなりたくて、一日何時間も練習した。
♪ズイイイイーーーー♪とか、♪ザアアアアーーーー♪とか、♪ウアイアイアイーーーー♪とか、同じような発声練習を毎日毎日ひたすら繰り返した。気ちがいじみていたと思う。よく近所から苦情がこなかったものだ。
あるとき、オペラの役をもらって、自分のソロの中に、とても高い音が出てきた。私は高い声が苦手で、その音がどうしても出せなかった。毎日毎日そのひとつの音だけを何度も何度も練習した。ものすごく高い声(まるで悲鳴)で、
♪ア~~~~~~♪ ♪ア~~~~~~~~~♪ ♪ア~~~~~~~~~~~~~~♪
って毎日毎日何時間も何時間も・・・
よくおまわりさんが「事件ですか?!」ってかけつけて来なかったものだ。(=_=)
だけど、それだけ練習しても、なかなかコツがつかめなかった。
そんなある日、レッスンを受けている最中に、どんなアドバイスをもらったのか忘れてしまったけど、何度も出しているうちに、抜けるような声が、パア~~~~~~っと出た!今まで引っかかっていたものがとれたように・・・
先生が「お~!出た出た!」と言って、まわりで見守ってくれていた友だちも拍手をしてくれた。そのときの爽快さは、長い長いトンネルをやっと抜けて光が差したようだった。それから、やっとコツがつかめて、苦手な高音が出せるようになった。
もう、今ではあんな難しいことに挑戦して、必死こいて練習することもなくなってしまったけど、その頃がんばってつけた力の名残で、ただただ好きな曲を弾いたり歌ったり楽しめるのはいい。
なので、「ピアノが弾けていいね~」とか、「歌が歌えていいね~」なんて言われると、「いやいや、あなたが私と同じくらい練習していたら、もっともっとできていたかもよ。」って思う。
今日は壇珠(ミユ)さんのこちらの記事を読んで、そんなことを思い出していた。
そして、迷っているときも、間違っているときも、怒鳴られているときも、気ちがいじみているときも、うまくいったときも、それぞれがどれも大切な瞬間なんだなって・・・
自分に間違いを許そう。それはその先の嬉しい瞬間の元だと思ったっていい。ガンガン間違えよう!わたしは下手くそにしか歌えない。でも、下手くそなことと、うまくなる瞬間と、うまくなった後との間に、重要度の差などまったくないと思う。人間が勝手に、うまくなってよかった、と思うだけのことだと思う。この過程そのものに、わたしは人生の時間を費やしていて、それに優劣なんかないと思うのだ。どの瞬間も同じだけ大切だ。
うまくなったのが嬉しいのは、下手だったからだ。では、どちらかがどちらかより優れた瞬間なのだろうか。鶏と鶏卵は、どちらが重要なのだろう。
自分を愛することだってそうだ。うまくいかない時期、あれこれ思っても瞑想しても本を読んでも何をしてもてんで意味すらわからない時間が、種であり雨であり太陽の光であり空気でありすべてであるのだと思う。
だから、必死こいていいんだ・・・その時間を、自分の人生に織り込んでいることに納得していれば、それでいいのではないだろうか。
命があって、生きているということを謳歌しよう。一生懸命サラリーマンをやって喜怒哀楽を楽しんだ人と、畑作を極めることに夢中になった人と、開眼して悟りを得てその深遠さに感動した人と、それらの人生に優劣はあるのだろうか。人生を楽しんだ、それを三者三様にやったのなら、どれも同じだけ素晴らしいのだと思う。
右往左往しよう。試行錯誤しよう。失敗して間違おう。それらをしているときと、喜んで笑っているときとの間にある気がしてしまう優劣への偏見を捨て去ってしまおう。迷っている人を、不幸だなんて思わなくたっていい!!
そして、今日も迷子のポチは、なんと迷ってばかりいましたよ。(´-ω-`)
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