そこに愛はあるのかい?
夕べ私の息子がパパになった!(≧◇≦)
つまり、私は、おば・・・です。
でも、新しい命の誕生にもう、ウキウキわくわくしている。
あちこちからお祝いのメッセージが届く。
赤ちゃんの誕生はいつだって、たくさんの人を笑顔にして、たくさんの人を幸せな気持ちにさせて、たくさんの人の愛に包まれる。
それにしても、ついこの間自分が出産をしたばかりだったような気がしているのに・・・月日の経つのは早いな。早すぎる!
いろいろ思いを巡らせていたら思い出したこと。
自分が三度目の最後の出産をして入院しているとき、テレビで「ひとつ屋根の下2」というドラマをやっていた。しかも、夕方には毎日「ひとつ屋根の下(1)」が放映されていた。いっとき家事と育児から解放された私は、誰にも邪魔されず、毎日このドラマに浸っていた。
その中に、「そこに愛はあるのかい?」っていう台詞がよく出てきて、これがもうお気に入り!・・・で、それ以来よく心の中で囁いてきた。「そこに愛はあるのかい?」って・・・心の中でね。だって、口に出したらまるで恥ずかしいし、本当にそこに愛があるかどうか確かめるなんて、怖くてできない。「いちいちうるさいな。」「そんなものは、ない!!!」ってなっちゃったら悲しすぎる。
極端な例だが、わたしはもし「仕事もうまくいって、お金も金銀財宝もザックザク(って今は言わないのだろうけど)だが、一度も異性に愛されない人生」と、「自らの経済活動が大した成功をすることは一生ないが、夢のようにめくるめく恋多き愛され人生」のどちらかを選ばなくてなならないのだとしたら、微塵の迷いもなく後者を選ぶ。
世のどれくらいの人がわたしと同じ感覚かはわからないが、それなら自分も後者だな!という人も確実にいると思うのだ。
この、愛する人に100%愛されるとか、天国にいるような理想の恋愛をするなどの『恋愛カテゴリ』の優先順位が実は高い人が、無意識にでも意識的にでもそこを諦めて、別のことに目を向けて問題と対峙したり目標を作って頑張っているというとき、何をしてもあっちこっちで問題が絶えなかったり、身体にいつまでも症状が出たり、ということがある。
ですよね?
バリバリ仕事して、バリバリ稼いで、世間的にも認められて、新聞に載ったり、なんとか功労賞とかもらったりしても、なんだかギスギスして、みんなに怖がられて、ときどき一人で寂しい涙を流して、たまに誰かに優しくされそうになると、「愛なんて私には必要ない」みたいに跳ねのけて、強がって生きる人生より、バカでドジでまぬけで、せっかく稼いだわずかなお金も騙し取られて、料理をすれば塩と砂糖まちがえて、鍋焦がして、お魚くわえたドラネコはだしで追っかけたり、買い物に出かければ財布を忘れたり、そんな愉快なサザエさんみたいになっちゃっても、愛されキャラの人生の方が私も好きだな~。まあ、私はそこまでドジではないけど・・・
自分の深い望み、本当は持っていたけど無理だと決めつけて蓋をした希望、それを引っ張り出そう!叶わなかったときに辛いからと見るのをやめてしまった愛の夢・・・その夢を持っていた自分は傷ついてひとりぼっちだ。その自分を迎えに行って、ちっともおかしくなんかないよ、と言ってあげよう・・・!自分に認めてもらうという、その自愛効果は絶大である。
なんなら、本当にモテ始める。(ホント
愛を求めるって、いいですね。愛されたい自分を、堂々と認めよう!
大賛成だ! (^O^)/
これ、たぶん子どもの頃からずっと求めてきていたもののような気がする。例えば親に、何かお小遣いとかもらうとき、例えば叱られるとき、例えば褒められるとき、例えばお弁当を作ってもらうとき、いつもいつも「そこに愛はあるのかい?」って思っていた気がする。
これからも問い続けよう。「そこに愛はあるのかい?」って・・・もちろん自分自身にも・・・
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