真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

ダサい自分さえも母の愛で受け入れよう

調子に乗ったかと思うと、またウジウジ考え出すダサい自分。

 

そんな私にも、きょうの壇珠(ミユ)さんの記事は優しい。

 

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わたしは自分がどんな状態のときの自分を醜いと思うだろうか。道路に落ちているコインを、逃げ際のカナヘビと同じスピードで拾ってしまうときだろうか。自撮り画像を美肌アプリで撮って汚肌をごまかしているときだろうか。前の車がノロノロしていると「マジうぜー」などと言ってしまうときだろうか。
考えていたけれど、わからなかった。他者のなにを醜いと思うだろうか。同じくわからなかった。醜い人なんているのだろうか。それらの状態の人を見ても、わたしがもしその人のお母さんだったら、そんな我が子を可愛いと思ってしまう気がしてならない。

 

どんなバカな子でも可愛いと思ってしまう、母の愛ですね。

 

きっと、醜い人なんていないのだと思う・・・・わたしたちは老若男女、みんな可愛い。美しくて可愛くて、なにも醜くなんかないのだと心から感じる。でもわたしは「ダサい」という状態はいろいろあると思うのだ。

なにがダサさなのかと考えてみた。わたしが勝手に思うところでは、過去にとらわれて、自分や他人の行動を制限すること、しようとすることだ。
過去を参照にして未来を決めつけるときにダサくなる。自分をそう決めつけて、その不満を他者に向けるともっとダサい。

究極を言うと、わたしが自分を信じないとき、わたしはダサくなる。

 

そうか!そうだな。「自分なんて・・・」とか、「どうせ私のやることなんか・・・」みたいに、ウジ子がいじけ根性出してくると、ダサくなるよな。

 

そして、自分のこうした矛盾を微笑ましいと思えるほどには大人になった。
矛盾、しゃーない。だから、どちらかの答えに自分を固定しておかなくてはならないと考え、その理由やら根拠やらを筋道立てて考えて自分をそこに当てはめるのは、とても不自然で窮屈なことだと思う。なぜなら矛盾状態が自然であるから。矛盾がないという人は、そこに自分への嘘がある。

 

強がりの自分と弱虫の自分と戦わせて、ああでもないこうでもないと、さんざんやり合って、どっちが正しいかケリをつけようとしなくてもいいんだな。

 

だから、誰かが同じようだとしても、わたしはどうしてそれを責められようか、醜いと言えようか・・・!?

 

ウチら、互いにちょっちゅダサいよな、(笑)とは言えるだろうけれど、そんな自分のことを「まぁまぁ、めんこいでねえか」と思っているのだもの、他者のこともそう見えてしまう。

 

ああ~出たね!出た!これいい~!この会話が好き!

「ウチら、互いにちょっちゅダサいよな。」

これね!そして、

「まぁまぁ、めんこいでねえか」って言う。

 

わたしの人格はしょーもないようなものだから、人徳があってそう見えるのではない。自分のことを受け入れたから、他の人のこともそう見えてしまうだけ、たったそれだけのことだ。

 

ウジ子(うじうじするやつ)もダサ子(ダサいこと考えるやつ)も、星一徹やサンチー(活を入れてくるやつ)も、みんなみんな私の中にいる、可愛いわが子。

けんかしちゃダメだよ~!みんな仲良くしなさいね~!

 

 

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