真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

思い出しさえすればいつだって愛に包まれる

 

こちらの記事を読みかけて、しばらく中断した。

記事の中で紹介されていたジョシュ・ダニエルさんの歌に、今やっていることを忘れるくらい惹きつけられ、浸りきってしまったから。

 

そして・・・

そうだった。まだ途中だった。と思って続きを読んでびっくりした!

まさに、私がたった今浸っていた世界のことが言葉にされていたから・・・

 

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音楽の素晴らしさのひとつは、「人に神を見る」ことだと思う。それを作る人も、演奏や歌で現実にする人も、それを鑑賞する人も、そこから思い出すことだと思う・・・我々の皆が、神だということを。

 

私はずっと思っていた。世の中には選ばれた素晴らしい人たちがほんの一握りいるのだと。それは、自分とは遠い世界のことだと。

でも、違った。

 

たとえばわざわざ「ゴミ」を担ってくれているこのエネルギーよ。ダイヤモンドよりもありがたく、哀れに、可愛く、愛しく見える。この視点で見てしまうと、世界はひっくり返ってしまうのだ。綺麗で美しくて輝かしいものだけが神がかっているのではない。すべての醜いものだって、愛が担っているのだと思って見てみると、とにかく大変なことだとわかる。すべてが完全に愛によってできているというのは超絶すごいことで、虚しいほどになんの意図もない「無」で、空恐ろしいほどに自然を極めている・・・・・本当にここには言葉で書き表すことのできない感覚に陥った。

 

奇麗で美しくて輝かしいものだけが神がかっているのではなくて、すべてが、すべてが神様の愛によってできているという。

それに気づきさえすれば、世界はひっくり返ってしまうのだと。

 

神は遠いところにおられるんじゃなくて、手をのばせばすぐ届くところにおられる。

それどころか、この私自体も神の一部なんですね?

あの人も、この人も、あなたも、わたしも、みんなみ~んな・・・

 

・・・なんてこった!?

神様を軽蔑したり、バカにしたりしてたってこと?見くびっていたってこと?あの人わかってないから、わたしが教えてあげようなんて、思い上がっていたってこと?

神様なんだから、すべてすべてお任せしておけばいいんだ・・・変に思える人や、出来事だって、みんな神様の愛から起こっているんだな・・・自分のやることさえも、任せておけば、そこには愛が働いているんだな。

 

わたしたちが悲しいのは、わたしたちがバラバラだからではない。わたしたちがひとつだから、永遠にひとつだから、バラバラという幻を「悲しめる」のだと思う。あなたの失敗はわたしたちの失敗だ。わたしの手柄はみんなの手柄だ。わたしたちのなにかは、わたしたちそのものだ。分離はどこにもない。ただ、起きている。そしてただ、気がついている。

 

バラバラは幻だったんだな。いつも、嘆き悲しんでいることは、幻だったんだ。もうすでにひとつなのに。もうすでに、すべてはわたしの一部で、わたしはすべての一部で、すべてはわたしのためにあってくれて、わたしはすべてのためにあるというのに・・・

 

すべてが神なら、神はいるのだろうか、いないのだろうか。すべてが神なら、それを外側から神がいる、と認識できる存在があるだろうか。

 

そばにあるもの、取って触れるもの、会って話せる人、身近なものから、これがもし愛でできているのだとしたら、もしこれが自分の現実のために愛がその物質になって見せてくれているのだとしたら、というところから考え始めると、そこに使った知性は羽を生やす。
そのアイデア、その思考、迷い、感覚、体感などが、一体になって気づきに向かい始める。だからどうか、迷ったときには思い出して欲しい。

これが愛でできているのだとしたら、もしこれが神がわざわざそれになっていてくれているのだとしたら、というちと変なアイデアのことを。

 

すぐに忘れてしまうから、日々思い出したい。

毎朝毎晩このことを思いたい。

思い出しさえすればいい。思い出しさえすれば・・・もういつだって、どこにいたって、愛に包まれることができる。  

 

 

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