ただただ喜びに包まれていく
私はただただこの文章を読んでその温かさ、優しさに浸る。
余計なことばはなんにもいらない。
ただただ喜びに包まれていく。
すべてに届けという願いの元だからこそ、ここに横たわった陽の光に意図などなにもないのだろう。どこに届いてどこを照らし、どこで尽き消えても良いという悟りを携えた、憐れみながら微笑むような光だった。
祖父といると、ただ温かくて自由な気持ちになった。わたしと妹は祖父を愛した。いつも川に連れて行って、わたしたちが遊ぶのを見ていた、わたしや妹がどんなに粗相しても怒らなかった、正しいことなど一度も言ったことなどなかった、優しさしか知らなくてひどく不器用だった、一人ぼっちの、お酒の他のどんなことにも辛抱強かった祖父を愛した。
わたしも、きっと多くの人も、自分を自らの価値判断で切りつけて生きている。己の本当の姿を知らないままに。
祖父がそうであったように、自分でどんなに敗者だと思っていたって、わたしたちは誰かにとっての太陽なのだとわたしは思う。彼には想像のつかないことだろう。あんなに人生にメッタメタにされた彼が、いかに孫たちに愛されていたのかを、彼は知らないままこの世界を去ってしまった。
人はどんなに自ら曇って光を隠したって、それは暗闇からでも月に反射するように誰かを照らしているのだと思う。陽の子供に、陽に愛されていない人などいないのだろう。どこかに神さまがいてもいなくても、わたしたちがどんなに強くても弱くても、わたしたちは太陽の育む世界の住人だ。
自分を肯定して肯定して勝って高めて突き上がっても、否定して否定して虚しさに暮れていても、陽は両者の上に等しく降り注ぐ。
わたしたちが同じ陽を浴びて、同じように暖められ照らされていることを思う・・・どんなに自分を凡庸だと思う人も、どんなに優れていると思う人も、悲しみに打ちひしがれる人も、たとえば世界を手にしたと思う人も。
太陽から届く光の粒子は自然界のシステムを通過して「人間」にもなる。人間は太陽を淵源としている。そこで迷い、そこで悩み苛む人間の姿は、太陽の姿なのだと思う。太陽が親だなんて、なんだか誇らしい。
陽は同じようにわたしたちを照らす。誰かのためのスポットライトになったりはしない。地平線から滑り落ちて夜を残し、わたしたちを休め、朝を降臨させ、その光ですべてを愛撫する。在るように、在るままを、ただ祝福しに来る。その愛のもとにあって、わたしたちはなにに勝つ必要があるのだろう。一体どこに、負けている必要があるのだろう。
自分の知らないところで人を傷つけることもあるだろう。けれども、わたしたちはきっと、自分の知らないところで意図せずとも誰かのお陽さまだ。
陽の子であることを知っていよう。気楽に喜ばしく静かに。自分が輝くことを、温めることを、照らすことを、自分に許していこう。
きっと、太陽であるわたしたちの、それが自然な姿なのだ。
今日も醜いこといっぱいしちゃったな。
でも全部浄化されて眠りにつくことができそう。
ああ~きょうも同じ太陽の光に照らされ、一日を終えることの喜びよ~!
きょうはただただひたすら「ティカン・・・ティカン・・・」(コピー&ペーストするとこんな音がずっとしてる。)しただけでした。
親鸞聖人の書かれた教行信証という書も、「よろこばしきかな」で始まって「よろこばしきかな」で終わっていて、内容はほとんどが引用文だと聞いたことがある。私とおんなじお気持ちだったのかな? ( *´艸`)
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