真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

相手を思いやる想像力と、自分の本心を探る丁寧な対話から生まれる優しさ

今日の壇珠(ミユ)さんの記事のテーマは優しさだ。

 

考えていて、今日ここに書いてみようと思ったのは、誰か他の人の立場に立ってみる、想像してみるということだった。その思いやりを通して自分に湧いてきた感覚を大切にして行動するのは、優しいことだなと思った。

 

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本当は、誰かの立場に立ってみても、きっとこう思うだろう、きっとこう感じているだろう、という自分の想像でしかないのだけれど、それでもそれをすることがやっぱり「優しい」ということから欠くことができないと思った。

 

これを読んで、またもや私はトイレの話を思い出してしまった。

(よっぽど辛かったんだね( ノД`))

前も書いたけど、私はトイレを我慢するくせがあり、小学校1年生の頃、学校でお漏らしをしてしまったことがある。そのときの先生の迷惑そうな顔とか、まわりの子たちの騒ぐ様子とか、自分の恥ずかしい気持ちとか、少し学年が進んでからも、「そういえば一年生の時さあ~」とそのことを話題にされる恐怖心をいまだに覚えている。

 

・・・で、教師になってから、たまに授業中にお漏らしをしてしまう子がいる。そうすると、その子が途端に小さい頃の自分と重なってしまう。私は必死でまわりの子の気をそらして、気づかれないようにそっと保健室に行かせて、サササッと拭く。そして、まわりの子が気づいて何か言いそうになると、必死で防ぐ。「自分だったらどう?気持ち考えてね。」っと必死で目で訴えながらささやく。だいたいの子は察してくれる。

もしも自分に経験がなければ、「我慢する前に言わなきゃだめだよ。」とその子を叱ったり、まわりの子にもこれほど警戒しなかったりするのかもしれない。でも、こういうときは、完全に自分がその子に同化してしまう。これを思いやりというかどうかはわからないけど、思いやりには想像力がないとだし、想像力は経験とも関係すると思う。そう思うと、思いやりの深い人になるには、ありとあらゆることをできるだけ経験した方がいいことになる。そう考えると、どんな不幸なことも思いやりに変えることができるということになる。

 

優しさもいろいろだ。本当に相手の気持ちがわからないと、優しさも押しつけがましくなる。こちらの都合で優しさを押しつけておいて、相手がそれに報いてくれないと、文句を言ったりしてしまう。相手を尊重する気持ち、相手が本当にいきたい方向に向かえるように願う気持ちが優しさには必要なのかなあとも思う。

 

 

それから、誰かを間違っていると思ったときや頭にきた時に、それをいつも言えないから今後はどんなときも言っていこうと思う、という発信を見ることもあるけれど、これはそれを自分で選択しているというしっかりとした認識が必要なことだと思う。それなしに、言いにくいと感じながら無理にハードルを超えて言ってしまうと、こちらが無理をしたからこそやっぱり大きな反発を食らったりしてしまう。
このようなときに、ただ言うだけではなく別の道もあると思うのだ。

 

それに、本当の心を伝えるというときというのは、実はさほど言いにくさがないものだ。恥ずかしさとか心配はあるかも知れないが、本心だったら言いたい気持ちが上回って、それらをちゃんと処理できる。

 

正直に口に出すようにして行動しているのに気分も悪いしうまくいかない、という人は、一度その方法だけに頼るのをやめてみるのも手だと思う。
そしてそんなときこそをチャンスとして、自分の深い本心にアクセスできないものだろうか。

 

自分の本当に欲しいもの、本当に進みたいほう、一番の望みを拾ってあげること。
それを、なにかの教えを動機にせずに自分で意図を持ってちゃんとやること。

 

丁寧にこれをすれば、相手や状況を尊重しながらも、自分が良い気分になったりスッキリするのを害さないものだと思う。自分の中での争いがない。
それによって、相手にも優しく自分にも優しいのが、一番気持ちがいいと発見することが多々ある。わたしはそういう事があるたびに、スリルとも勝ち負けとも関係のない静かな満足と、深い安心を感じることができる。

 

「こんなことホントは言いたくないけどさあ~」って前置きして何かを言おうとするとき、よくよく自分に問うてみる。

 

「なぜ言いたくないの?」

「だって角が立つじゃん?それに私が悪者みたいになっちゃうし・・・」

「じゃあ言わなければ?」

「言わなきゃわからないじゃん?自分で気づいてくれれば私がこんな思いして言わなくてもすむのに。」

「気づいてくれないと誰が困るの?」

「そりゃあ・・・はい、私です。」

「じゃあ、それ自分のために言うんだよね?」

「はい、その通りでございます。」

となる。

 

 

次、「言いたいんだけど言えないんだよね~」っていう場合。

 

「どうして言えないの?」

「だってどうせちゃんと聞いてくれないし、嫌な顔されるもん。」

「相手を嫌な思いにさせたくないから言えないの?嫌な思いするのは相手なの?」

「いや・・・はい・・・、私でございます。」

とか、

 

「どうして言えないの?」

「だってこんなこと言ったら、きっとショックを受けてかわいそうなことになる。」

「相手がかわいそうだから言えないってわけ?また相手のためなの?」

「いやあ~・・・自分でも相手をかわいそうな目にあわせた罪悪感に苦しむことになっちゃうんだな~」

「結局自分だよね?」

「はい、そうでした。その通りでございます。」

となる。

 

そもそも言っていることと、やっていることが一致しないとスッキリしないよな。天秤にかけているのは、言わずにいるときのモヤモヤ感と、言ったときに受ける誤解や反発やのしかかる罪悪感などのダメージ。そのダメージを受けてもこのモヤモヤ感を解消しないままいる方が耐えられないなら「言う」方を自分で選ぶだろうし、ダメージの方が自分にとって大きいなら「言わない」を選ぶだろう。自分でね。本当はやりたいのにできない。とか、本当はやりたくないのにやらなきゃというのもいっしょ。結局は何かを天秤にかけながら、自分にとっても相手にとっても、そして、どっちにしろ、相手にとってというのも自分を通して思っているだけだから、結局は自分の都合で選んでいることになる。

 

 同じことをしていても、誰かのせいにして、「あの人がわかってくれないから・・・」とか言っているのと、「これは自分で選んでいる」と納得するのとでは意識が違ってくるんだな。

 

それに・・・

そもそも壇珠(ミユ)さんも言ってるように、本当に言いたいことなら、それほどまでに自分に無理をさせなくても、必ず言うべき時がくれば言ってしまっているものだ。

 

 

相手を尊重して、わからないなりにも相手の立場にたってみること。その上で、自分とも丁寧に対話をして、自分の一番納得のいく形を自分で選ぶこと。これで、壇珠(ミユ)さんの言う、静かな満足と深い安心を得られるのかな。

 

 

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