なまぬるい優しさよりも鋭いナイフ
今日は壇珠(ミユ)さんのこの言葉を読んでドキっとした。
人と人が会うときというのは、その人の佇まいから互いに目に見えない情報を得ているのだと思う。その人の言葉よりも表情や身体の使い方や声が、大いに、正直に、その人の本当を物語っている。
生きているということは、それそのものが表現なのだと思う。わたしたちはなにかを具現化しながら生きているということだと。
どんなに取り繕ったって、私の本当の姿はこの生き様にすべて滲み出ている。
何をしようか?どんな表情をつくろうか?どんな言葉で話そうか?そんなことをいくら計算しても、自分の在り方はもうすでに映し出されている。
だから、自分をよく見せようなんて背伸びばかりすることに気を取られていると、大事なことを見失う。もう何も取り繕う必要もないし、このまんま、正直な自分のまんまでいくしかないんだな。
壇珠(ミユ)さんは、坂爪さんのことをこう言う。
彼はわたしにとってみれば鏡のような人で、一緒にいるとこちらの姿がそのまま彼のリアクションに現れるような感覚を覚える人だった。それが高性能カメラのような正確さなのだと感じた。それを怖いと感じる人もいて、それが鋭いナイフという表現になったのかもしれない。
こういう人のことが私はずっと怖かった。すべてお見通しで、心と裏腹なことを言ったりやったりすると、そこを鋭く切り込んでくるような人。でも、最近試してみたくなった。高性能カメラ(鋭いナイフ)のような方とお会いして、自分にどんなことが起きるのか?はたまた何も起きないのか?どんな感じになるんだろう?「本性を現せ!」と自分に鋭いナイフをつきつけられてみたい。その高性能カメラに自分を映し出してみたい。
けれども、錆びたナイフやちゃんと映らないカメラのような、嘘の優しさでコミュニケーションをとろうとする人と一緒にいるときの、無駄感やつまらなさを感じない。わたしは彼といると安心と幸福感とを覚える。
それだ!私はそういう嘘っぽい優しさやなまぬるさに、うんざりしているのかもしれない。そんなことでは私の心はちっとも満たされない。本当のことにしか興味がない。それがたとえ鋭いナイフだとしても、なまぬるい優しさに浸かっているよりずっといい。ただただ本物にだけ触れてみたい。
わたしは、人にちゃんと出会ってくれる人が好きだ。こんなわたしです!と表してくれる人が好きだ。黙っていても通じることと、その人の伝えようとするものに合致を感じる時が好きだ。
相手に合わせて、自分を押し殺して、気に入られようとして、機嫌を損ねないようにして、気をつかっていないと、切りつけられてしまうこともある。でも、坂爪さんの場合はそれとは逆なんだろうな。むしろ本当の自分を隠してごまかして、気に入られようとしたときに、鋭いナイフで切りつけられるんだろうな。
私は壇珠(ミユ)さん、坂爪さん、保科さん、この3方がいっしょに過ごされている動画とか観るのが大好き!その佇まいから「あ~いい!」って思っちゃう。そこから滲み出てくる表情や仕草から、なんの違和感もない言葉が発せられる。まさに、壇珠(ミユ)さんの言葉を借りると、「黙っていても通じることと、その人の伝えようとするものに合致を感じる。」
ああ、これからわたしはどうなるのだろう。一寸先は闇だ。それは生きる上で最も純粋な喜びのうちのひとつなのだろう。先のことを心配したり不安に思ったり未知のワクワクに胸が高まったりする自由、そんな自由の中には「わかりきっている」という退屈の入り込む余地がない。
それを自分で好んでいること、自ら選んで居ることに全責任を感じながら歩けることを幸福に思う。
「わかりきっている」という退屈の入り込む余地のない、一寸先の闇の世界を、どんな展開が起きてどんな自分に生まれ変わるか想像もつかない、どこまででも広がっていける自由を、心いっぱいに感じて、この一瞬一瞬を刻んでいきたい。
今日は卒業シーズンに子どもたちと歌ったこの歌を送ろう!(歌おう!)
♪ いきものがかり YELLより ♪
永遠などないと 気づいたときから
笑い合ったあの日も 歌い合ったあの日も
強く 深く 胸に 刻まれていく
だからこそあなたは だからこそ僕らは
他の誰でもない 誰にも負けない
声を 挙げて ”わたし”を生きていくよと 約束したんだ
ひとり ひとつ 道を 選んだ〜 ♪
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