真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

矛盾だらけの人生。

毎日バラエティーに富んでいる壇珠(ミユ)さんの記事。

毎日がハッピーかと思えば、今度は「人生は苦だ」と言う。

この一見矛盾しているかのようだけど、決してひとつの結論みたいなものに安住させない言葉。

私はこの、どこまでも枠をはずしてくれる、ミユさんの言葉に翻弄されるのが好きだ。

 

わたしは人生は苦だと思っている。しかし、苦だということを受け入れれば受け入れるほど、どこに苦があるのだろうとも思えてしまう。

 

世は苦なり。そう思っていると、誰かのたったひと言の優しい言葉に涙が出る。人生は皮肉と矛盾に満ちている。わたしはそう思うのが好きだ。

 

 

彼と別れたいのに別れたくない・・・仕事を辞めたいのに辞めるのが怖い・・・こういうときは、どっちも持っていればいいや、とその問題から本当に手を放してしまうと、逆にスッと本当の気持に出会ったりできる。迷いが消えて、問題が分解されて問題ではなくなってしまうのだ。

 

 

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今日もミユさんの記事を読んでいろんなことを思い出した。

 

伝統の歌声を誇る☆☆小学校に勤務してたとき、そこでは毎朝始業と同時に、あちこちの教室から発声練習が聞こえてきていた。伝統の歌声を一番誇りにしているのは、地域の方々、特に保護者の方々で、その方たちの期待といったら半端なかった。先生たちも子どもたちもその期待に応えるのに必死だった。・・・で、子どもたちはとっても歌が上手なんだけど・・・なんていうか・・・いつも「この声で大丈夫ですか?」「この歌い方でいいですか?」みたいな感じがあって、子ども特有のはっちゃけた感じというか、そういう元気だけが取り柄みたいな歌声には、見えない禁止令が出ている感じだった。私は☆☆小学校を出るとき、なんとなく疲れちゃって、辞めたいと言ったんだけど、もう次が決まっちゃってると言われ、とりあえず転勤することになった。

 

次に務めた◇◇小学校は、☆☆小学校とはまったく質の違う子たちで、別の意味で衝撃だった。5年生にチンピラ集団がいて、音楽の授業に行くと、その子たちはいきなり反乱を起こした。「なんで音楽なんてやらなきゃなんねんだよ~!」「音楽なんてやりたくねえんだよ~!」と口々に言いながらリコーダーでガンガン黒板をたたいていたり、後ろの方で泣いている子がいたり、凄まじい光景だった。

 

この流れの中で、私は自分が何をしているのかよくわからなくなってきた。

「私、なにやってんだろう?」

「毎日毎日朝早くから夜遅くまで、休みも返上で、いったい何のための仕事をしているんだろう?」・・・って・・・ 

 

ある日チンピラのひとりがつぶやいた。

「教師なんていい商売だな。子どもを傷めつけて給料もらって・・・」

そうだよね?なんかね。荒れ狂う子どもたちを目の前にして、教育ってなに?この子たちが今まで受けてきた音楽教育の成果ってこれ?(自分がそれまでしてきたことも含めて)って思ったら、これで給料もらっている教師って何者?って思ってしまった。

 

そして、家の事情もあり、私はもう辞めよってあっさりと思った。

 

・・・で、辞めるはずだったんだけど、〇〇小学校で、子育て中の音楽の先生が育児短時間勤務制度を利用したいと言っているんだけど、代わりに半日勤めてくれる先生を探しているとのこと。今よりはだいぶ仕事も楽になるし、責任も軽くなるからどうかという話をもらって、それならば・・・と受けることにした。

 

で、すっかり気楽になって、明日は初めての〇〇小学校の入学式という日。気が緩みに緩んでいた私にハプニングが起こった。ルンルンといい加減なお風呂掃除をしていたら、足を滑らせて転びそうになり、慌てておふろのふちについた右腕が更に滑って落ちて負傷(トホホ・・・)。

夜中に緊急医に行った。そこは闇の中、木に囲まれたお化け屋敷のような病院で、中からフランケンシュタインのような人が出てきて、無言でレントゲンを撮ってくれた。それが先生かと思っていたら、どうもフランケンは助手だったようで、次にブザーをブーと押して誰かを呼んでいるようだった。現れたのはアルコールの香りがする、鼻の頭が赤い、お茶の水博士のような人で、「折れてる」と言って、鼻息をフンフン言わせながら、荒っぽくギブスを巻いてくれた。

入学式にはスーツも着れず、1か月くらいの間、ビニール袋を巻いてお風呂に入ったり、左手を駆使して着替えをしたり、左手と右の指の先っちょだけで料理をしたり、黒板に書く字が子どもみたいで笑われたりと、いろいろ不便なことはあったけど、それまで骨折なんてしたことがなかったので、「ま、いっか~。」(これ、私の口ぐせらしい)と思った。

 

こうしてみると、確かに人生は「苦」の連続ですね。でも、そもそもが障害物リレーだと思っていれば、次はどんな障害物かな?どうやって乗り越えるかな?というのは苦しみであると同時に楽しみとも言える。そして、一つ乗り越えるたびに、うん、我ながらまたひとつ頼もしくなったのう。と自分がちょっとだけ眩しく思える。どんな無理難題でも乗り越えてやるぞ!みたいにちょっとだけ気持ちが大きくなったりする。

 あ、ちょっとカッコつけました。ハイ。嘘です。

放っておくと、「もう無理難題はやめてくれ~!」とか、「もう勘弁して~!」とか、「早く楽になりたい~」とか、言い出す自分がいる。

 

世の中をどう思うかなんて重要じゃない。 

自分をどう受け止めているか、それこそが世の中を見る目にかかっている唯一のフィルターだ。本当に、100%、自分をどう受け止めているか、それだけだ。

 

「苦の中にあって苦しむか」「苦の中にあって苦しまないか」という差があるのだ!

 

もっと感覚を正確に書こうとすると、苦ベースでないと生きる面白みがなにもない、のだ。

 

世の中をどう思うのか、人生をどう受け止めるのか、それは同じ世に生きていながら個々によって千差万別である。
その差がどこから来ているのかというと、その人がそのままの自分をどう受け止めているかの違いから、だと思う。

 

余計なフィルターを取って、目を覚ませ!今、ここ、にあるのはこの自分だけだ。毎瞬の自分はその毎瞬の自分しか持っていないではないか!それをただ見ろ、ただ受けろ、ただ味わえ!

 

そんな弱小で愚かな自分も、ぜんぶ、ぜんぶ自分だ。
そこに飛び込め!あらゆる自分にまみれてこの瞬間を生きる以外の、他の在り方なんてすべてが嘘だ!と思う。

 

 

まだまだ引用したい名言は山ほどあるのだけど、ミユさんのブログを直接読んでもらった方が早いので、最後のミユさんらしいお誘いの言葉を引用して終わります。

 

人生から障害をなくそうとするよりも、障害物のあるまま、それをアスレチックで遊ぶように生きてみないか!!

 

 

生きてみないか!!

( `ー´)ノ 

 

 

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