真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

自分を本当に楽しませられるのは自分だけ

壇珠(ミユ)さんのブログを読んで自分のブログを書く。

これが最近の私の楽しみ。至福の時。

 

まるで、念願の〇〇大学に受かって、念願の〇〇学を必死で学ぶ学生みたい。

〇〇教授の言葉に、一言一言聞き逃すまいと耳を傾け、必死でノートをとり、ラインマーカーで大事なところに線を引き・・・そんな感じだ。

「こんな大学があったなんて!」

「こんなおもしろい学問があったなんて!」

日々感動しながら・・・。

〇〇教授の言葉は実体験に基づいた、説得力のある言葉。

嘘もごまかしも媚びも諂いもない、赤裸々なお話。

数々の試練を、失敗を繰り返しながらも乗り越えてきた、冒険みたいな物語。

それを学ぶ私は、学生時代よりもよっぽど勉強熱心だな。( ˘ω˘ )

 

note.mu

 

「自分が人と違う」と思ったときに、自分がその自分をどう扱うのか

ダメだと一蹴するのか、その自分を拾い上げるのか。

 

あ~私は、人と違うと思うたびに、そんな自分を必死で隠して、人並みのふりをしてきたなと思う。

心の奥底で

「ちがうよちがうよ!まるでちがうよ!」

(あ~ここまで書いて私の中は「だるまちゃん~加古里子~」ワールドになってる。わっかるかな~?)

「ぼくがやりたいことはこんなことじゃないよ!」

とだるまちゃんが必死で叫んでいるのに、私の中のだるまどん(だるま父)といったら、

「わがまま言うんじゃない!」

と一喝するだけで、全く取り合ってくれない。

それでもわがままを言い続けるだるまちゃんを、だるまどんは、とうとう心の奥の押し入れに閉じ込めて、出られないようにつっかえ棒をしてしまった。

 

ちなみに、本当のだるまどんはこうです。

だるまちゃんは友だちのてんぐちゃんの持っているものがうらやましくて、だるまどんにいろんなものをおねだりする。

ある日だるまちゃんが、

「てんぐちゃんのもってるような、赤くて長くてとんぼの止まる鼻がほしいよう」

とおねだりしたら、お父さんのだるまどんは、それにこたえようと必死になる。

「赤くて長くてとんぼでも蝶々でも蜂でも止まれる花だよ。」

と言って、たくさんの赤い花を用意してくれる。

それを見ただるまちゃんは、なきそうになっておこって、目を真ん丸にひん剥いて、目の周りに三重くらいにしわを寄せて、

「ちがうよ ちがうよ まるでちがうよ。ぼくのほしいのは咲いてる花じゃなくて顔にある鼻だよ!」

と言う。すると、だるまどんは

「ごめんごめん。これはおおまちがいのとんちんかん」

と言って頭をかく。

そしてぺったんぺったんお餅をついて、一生懸命だるまちゃんの念願通りの鼻を作ってくれる。

 

「これだけの花を用意するのにどれだけ苦労したと思ってるんだ!」とか、

「もうお父さんにはたのまない!」とかにならない。

この「だるまちゃんとてんぐちゃん」の父子のやりとりは最高。

本当に微笑ましくて大好き!!

 

ハイ、それました~。話を戻して・・・

 

つまり、絵本の中のだるまどんみたいに、私も自分の中のだるまどんに、自分の中のだるまちゃんの言うことにちゃんと耳を傾けてほしかったんだな。

 

わたしはあの頃、自分は劣りすぎているため、その自分なりに何かに燃えて生きればいいのだと思うようになった。それを思いついた時、なんだか懐かしいような子供っぽい気分になった。それはとても気が楽になる発想だった。

 

 今思うと、心の奥の押し入れの中に閉じ込められた私の中のだるまちゃんは、もう自分を諦めて眠ってしまっていた。しばらくすると、もう私はだるまちゃんの存在さえも忘れていた。

 自分が人より劣っていると思える時、全然ついていけないと思う時、それは単にその人は自分の呼吸しやすい道ではないところにいるだけだという可能性もある。

 

一般的に良いとされる方向に無理やり合わせようとしても、無理なもんは無理、という人は必ずいる。では、そういう人は望んでも楽しく頑張って結果を得ていく道がどこにもないのだろうか??そんなはずはない。
まずは楽しみを感じること、そこから始めればいいのだと思う。

 

そうなんですね?自分が楽しいと思えるか?自分に違和感がないか?その感じに焦点を合わせればいいんだな。なんだかずっと私は、自分が楽しいかなんてあまり考えてこなかった気がする。どうしたら認められるか。どうしたら叱られなくてすむか。どうしたら面倒なことにならなくてすむか。そんなところにばかり焦点を合わせてきた気がするな。

 

さあ、だるまどんよ!押し入れの中で眠っている私の中のだるまちゃんを起こしにいこう!

「起きて!起きて!!」

「あ~ごめんよ。だるまちゃん。ずっとずっと楽しませてあげられなくて。もういいんだよ。欲しいものは欲しいと言えば!その望みを精一杯叶えてあげるよ!だから、思い切り楽しんでいいんだよ!」

 

楽しみを得る対象はなんでもいいとミユ教授はおっしゃる。

え?じゃあ人の悪口とかでも?う~ん、でもね?それをやって本当に元気は湧いてこないなら、それは自分にとって本当に楽しいことではないよ。と・・・

例えば嫌なことを直接相手に伝えるんでなくて、SNSで匿名でずっと誰かを批判してまわっているだけとか、そういういのは自分を元気づけるどころか、本当は傷つけているんだよ。って教えてくださいました。気をつけましょう!☝

 

そしてまだまだミユ教授の言葉は続く。

 

自分を世の中に合わせて矯正するのか、異物として世の中を生きるのか。
轍に合わせて進むのか、道なき道をゆくのか。
他人に認められて生きるのか、自分で自分を認めるのか。

 

これは何も異端児の話ではないよと。すべての人に当てはまることだよと。 


だから、どう生きるのかだって、全部違っていても不思議ではない。好きなようにしようとしたときに、そこに道がなかったり、大勢と違ったりするのは、ごくごく自然なことだ。そういう道に明かりが灯っている時、選択肢から外してはいないだろうか?

誰があなたの代わりをできるだろう。誰があなたになれるのだろう。誰があなたの楽しみを、幸福を、知っているのだろう。

だから、自分を楽しませるのは自分しかいない。自分で重い腰を上げないかぎり、他に誰もやってくれないじゃないか・・・!

 

そういえば先日「100de名著」という番組で、「大衆の反撃」というお話を聞いた。

「大衆とはみんなと同じだと感じていい気持ちになる人たち。」

「みんなと同じが正しいと思い込んでいる人たち。」

「平均人の凡庸な精神が平等の名のもとに秀でた個性を抑圧する。」

と言っていた。あるあるだ~。

 

そもそも多数派と少数派に分けがちだけど、本当はひとりひとりが個々の人生。誰も通っていない道を開墾しながら行くのもあり。どんな道だって、最初は誰かが開墾した道なんじゃないのかな。「前例がない。」とか、「そんな人は見たことない。」とか、「非常識だ!」とか、みんなに反対されたり、バカにされたりしながらも・・・

 

だから、世界に一つの自分だけの道を、自分を楽しませながら歩いて行こう!!!

 

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