世を超えようとするなら、世をあてにしない
生にしがみつくこともないから、恐れることもなにもない
~サーリプッタの経より③~
958-4
世を厭うて修行するものが
人里離れた坐る場所や
木の根もとや墓場や
山々の洞窟や
959-5
高いまたは低い臥せる場所に
親しみ住んでいる時
そこにはどんなに多くの
怖ろしいことがあるでしょう
しかし修行する者は
その物音のしない処に坐りまた臥しながら
それに怖れおののいてはならぬと思います
難しい~ でも わかりたい~
・・・ということで、
私なりに解釈してみます。
これは、世の中をあてにした上で、
その中でどうやってうまくやったらいいか・・・
そんな質問ではないよ!っていうことかな?
その覚悟なくしては、
いくら学んだところで、
またすぐに世の中に捉われてしまう。
そこを超えようとして学んでいるんだから、
まず、世の中をあてにしないと
覚悟を決めなきゃですね。
「この部屋暑いなあ~
もっとエアコンきかせてくれなきゃ集中して学べないよ!」
とか・・・
「この弁当値段のわりに、味がいまいち・・・」
とか・・・
そんな言葉は必然的に出てこなくなるんだな。
文句を言わないように我慢するとかじゃなくて。
本当に捉われからの解放を求めていったなら、
真理と一つになる自由を知ったなら、
そんなことはどうでもよくなる。きっと・・・
真理に従う自由を体現したら、
なにも恐れることはなくなる。
すべてを真理に、世界に、任せられるようになる。
思い通りにならないといって、
苦しんだり、嘆いたりしなくなる。
生活の保証みたいなことも、
求めなくなる。
恐れちゃいけない!と言って我慢するというより、
生きるも死ぬもすべて任せられるようになった修行者は、
ガツガツと生にしがみつくこともなくなるんだな。
そして、恐れることもなにもなくなり、
すべてを楽しめるようになる。
そこに至る道を尋ねているんですね。
つづき↓
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