心が解放された、自覚者の必然的姿とは?
「欲しがること=捉われ=不自由」からの方向転換
~速やかなことの経より⑥~
922-8
「目に見えるものを貪り求めず
つまらぬざれ言に耳を貸さず
美味なものを無闇に欲しがらず
世間の何事も愛好せぬがよい
目覚めた人の具体的な姿・・・それは?
まずは物(人)を自分のものにしたがらない。
欲しがれば、それに捉われることになる。
世間につながれることになる。
欲しがれば欲しがるほど不自由だ。
根本的に、「解放」「自由」とは反対の方向に行ってしまう。
次に、つまらない雑談に時間を費やさないこと。
いい加減な中途半端な気持ちで、人に対して、
ベラベラとおしゃべりするのは、
自分のことも、相手のことも、
軽蔑していることだと言われる。
三つ目には、美味しいものを、
無闇に欲しがらないこと。
それは一種の迷い。
他にもっともっと意義深い生に触れ、
精神生活が充実すれば、
雑談と同じように、
美味を愛好することにも、興味がなくなる。
そんなことは薄っぺらく感じられるようになる。
これ、がんばって、がまんして、
「物を欲しがらないように」とか、
「おしゃべりをしないように」とか、
「食べ物のことばかり考えないように」
とかいうことではなくて、
心が解放された、自覚者の
必然的な姿なんだな。
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