真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

心が解放された、自覚者の必然的姿とは?

「欲しがること=捉われ=不自由」からの方向転換

~速やかなことの経より⑥~

922-8

「目に見えるものを貪り求めず

つまらぬざれ言に耳を貸さず

美味なものを無闇に欲しがらず

世間の何事も愛好せぬがよい

 

目覚めた人の具体的な姿・・・それは?

 

まずは物(人)を自分のものにしたがらない。

 

欲しがれば、それに捉われることになる。

世間につながれることになる。

 

欲しがれば欲しがるほど不自由だ。

 

根本的に、「解放」「自由」とは反対の方向に行ってしまう。

 

次に、つまらない雑談に時間を費やさないこと。

 

いい加減な中途半端な気持ちで、人に対して、

ベラベラとおしゃべりするのは、

自分のことも、相手のことも、

軽蔑していることだと言われる。

 

三つ目には、美味しいものを、

無闇に欲しがらないこと。

 

それは一種の迷い。

 

他にもっともっと意義深い生に触れ、

精神生活が充実すれば、

雑談と同じように、

美味を愛好することにも、興味がなくなる。

 

そんなことは薄っぺらく感じられるようになる。

 

これ、がんばって、がまんして、

「物を欲しがらないように」とか、

「おしゃべりをしないように」とか、

「食べ物のことばかり考えないように」

とかいうことではなくて、

心が解放された、自覚者の

必然的な姿なんだな。

 

 

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