真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

思い通りにしようとがんばる?すべてを任せて自由を楽しむ?

すべてを任せる自由

~スッタニパータ・ダニアの経より②~

 

 仕事も家庭も充実して、

世間からも信頼されている、

牛飼いダニア。

 

この幸せが、絶対に壊されないように、

万全の備えをして、

今の生活を必死に守っているダニア。

 

 

それに対してお釈迦様はというと・・・?

 

19-2

私は怒りを絶ち 

荒んだ心を離れた  

と世尊はいわれた

マヒー河の辺りに 一夜の宿りを求め

小屋はあばかれ 火は消された

さあもしも降らそうと思うなら 

神よ雨をふらせるがよい

 

ダニアの幸せの条を整えるには、

 人との関係に骨を折ることが絶対必要。

 

ときには誰かのご機嫌をとって、

ときには自分を偽って、

いろんな人と駆け引きをしながら、

不満やイライラや怒りにも堪えつつ、

自分には落ち度が絶対ないように、

注意を払い、生活を守っている。

 

 

一方、お釈迦様は、

 

29歳のとき、奥さんや子どもを置いて

家を出てからは、

家庭をもたない。

労働もされない。

 

一夜の宿りも、食事も、

人々に求められる。

 

乞食の生活。

 

 

持ち物は、最小限度の

糞掃衣だけ。

 

ただただ人々の恵みを受けて

生活された。

 

そして、

それを与えられるか与えられないかは

人々に任された。

 

 

「食べ物ください。」

「あげられません。」

「え~?!ケチだな!」 ヽ(`Д´)ノ

とはならない。

 

交換条件でなくて、

ひとえに、一途に、

ただ求められた。

 

そこに駆け引きはなく、

無条件の恩恵だけを受けられた。

 

生かそうと殺そうと、

すべてを人々に任された。

 

願いがないわけじゃない。

「生かしてください」

という

切なる願いはあった。

 

でも、満たすかどうかは

相手に任された。

 

生きたいという要求も

自由。

 

それに応えるか応えないかも

相手の自由。

 

ただ

自由と自由が対するだけ。

 

 

自由の人は、

相手の自由を

絶対的に認める人。

 

それを一生貫かれた。

 

小さい人間の作る

自我の小屋など、あばかれ、

 

真理無常の世界に生きられた。

 

そこには、

人間のせまい頭で考える以上の、

思いもよらないことが、

無常に展開していく。

 

そこに身を任され、

楽しまれた。

 

 

何かをあてにする

希望の火も消された。

 

その真理の世界を知った

お釈迦様にとって、

自分のあてにする

希望の火なんて、

はるかに超えた世界がある。

 

それは、

無限の世界。

 

そこに

自分が入っていくだけ。

 

 

最後のリフレインは、

ダニアの悲鳴のような響きとは違って、

 

なんのおそれもない、

静かなひびき。

 

全く同じせりふを言っているのに、

180度違って響いてくる。

 

 

さて、まだまだ続く、

ダニアの経。

 

つづき↓

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