真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

誰かを否定することは、自分を肯定すること?わからなくなったら、スッタニパータを読もう!

 「これだけ」も「あれだけ」もない 仏法に対立はない

~スッタニパータ・パスーラの経より~

 

テレビを見ていたら、

偉いお坊さんが批難されていた。

 

「煩悩を捨てるために、

いろいろな修行をされてきたお坊さんが、

なぜ、こんなことするのか?」みたいに・・・

 

うん、そうだよな~

どうして、偉いお坊さんが、

こんなことになっちゃったのかな~?

 

でも、お釈迦様は、スッタニパータを読む限り、

「煩悩を捨てるために修行しなさい!」

とも言われてはないよな~ ('_')

 

そして、考えているうちに、

また、なんだかわけがわからなくなっちゃった。😵

 

これ、いつものことだから。

もう、考えるのや~めた!

 

そして、スッタニパータを読もう!

きょうはパスーラの経からです。

 

824-1

人々は「これだけが清らかだ」と主張して 

外の教は清らかでないというー

そして自分の立場だけを認めることによって

実は色々の 

自分だけの真理というものにとりついている

 

これは、ただただ事実の指摘だそうです。

「それじゃ、ダメなんじゃ~!」ということではないって。

 

もうね~「これだけ」ってことはないんだよ~。

だから、「あれだけ」ってこともないんだよ~。

ってことかな?

 

毎田先生もはっきり書かれている。

 

「人と対立するような立場のある限り、仏法ではない。」って・・・

 

でも、だからって、

お釈迦様は、そういう人を排除して、

「それじゃあダメだぞ!」とは、言われない。

 

人間が、相対的に、自分の考えをもとにして、

主張し合っている。

でも、そんなことは、自然なことで、あたりまえのこと。

それをみんなあるがままにして、許しておられる。

 

そんな世間をお釈迦様は、相手にされない。

「これじゃダメだ!」とか、「こっちは立派だ!」とか

「だから、もっとこうしなさい!」とか、

そんなことは言われない。

 

ぜ~んぶ世間に任されている。

 

人間はかわいいものだと、

慈悲の目でごらんになっているんだな。

 

「勝手にやっていなさい!」

「もう、知らん!」

なんて感じでもなくて、

 

愛の目で、包み込むように、見ていらっしゃるんですね?

 

 

否定することの裏には、

必ず自分の立場の主張がある。

「これはこうだ!」と限定することは、

それ以外を否定することになる。

 

誰かを否定するということは、

自分を肯定することになる。

 

みんなが、

「自分の考えだけが正しい」って主張を始めたら、

この世の中には、真理がいくつもあって、

それぞれが対立することになっちゃう。

 

真理というものは、大海のようなもので、

ひとつにつながっているんだったな。

 

いくつもあって、

あっちこっちで対立しているものじゃないんだな。

 

それじゃあ、世の中矛盾だらけになっちゃうし・・・

 

そのことを悟られたお釈迦様は、

いっさいの断定を捨てられ、

「無」になられたんですね。

 

誰かと対立はじめたら、

何かを主張しはじめたら、

 

「あ~、私、今、真理から遠ざかっていく~!」

(ToT)/~~~

ってことなんだな~ 

 


☆彡書店開いています!☆彡

 

☆彡 もうひとつブログ☆彡