真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

お釈迦様や、聖徳太子や、親鸞聖人や、キリストや・・・自覚者に会ってその言葉を聞いていながら、別の方向へ行ってしまう私たち

あなたが求めているものはそこにはない

~パスーラの経より⑤~

 

パスーラってなに?って思いながら読んでいたけど、

わたしたちのことだったんだな。

 

833-10

これとは反対に 

もう敵というものをもたない処に生きて

色々な考えに一つの考えを対立させない人達がある

パスーラよ 

あなたはこういう人達から何が得られると思うのか

その人達にはもうこれが最上のことだといって

摑んでいるものは何もないのである

 

834-11

ところであなたは色々の学説を

心の中で思いめぐらせながら

そこに真理を尋ね求めているようだが

そういうことでは 

いくら清められた人に出会って

学んでいるといっても

それ以上に先へ進むことは

とてもあなたには出来ないだろう

 

どれが本当の最上の教えかと探し求めて、

行ったり来たりしているわたしたちに、

そんなところに真理はないと言われる。

 

ほんとうに悟った人には、

これこそが最上のことだと、取り上げられるような、

意見も立場も主義も思想も態度もなにもない。

 

なにもないんだから、

誰とも対立しようがない。

 

「無」の人に敵はいない。

 

たとえばお釈迦様に、

たとえば聖徳太子に、

「人生において最上のこととはどういうことですか?」と尋ねても、

「そういうものはなにもない。」と答えられるだろう。

 

そのことが、

正にこのスッタニパータに、

そして、十七条の憲法の第十条に

はっきりと書かれている。

 

読めば読むほど、

これらは直結していて、

聖徳太子は、お釈迦さまのまるで生まれ変わりで、

そこにこそ日本仏教の源泉があるように思われる。

 

自分を暗殺しようとした弁円を

改心させてしまったという

親鸞聖人にしても、

「汝の敵を愛せよ」と言われた

キリストにしても、

 

同じように、

敵というものをもたないところに生きておられたんだな。

 

それなのに、それなのに、わたしたちは、

こういう自覚者たちに会っていながら、

この人たちの言葉を聞いていながら、

学んでいながら、

 

心の中ではあの説この説と思いめぐらして、

あれはいいとかこれはまちがいだとか、言いながら、

誰かと争い、 

あっちへ行ったりこっちへ行ったり

うろうろしている。

 

その執着を離れることができない。

 

そういうものを一切振り払って、

目の前の真理の世界へ

一気に飛び込むことができない。

 

それがわたしたち人間の姿なんだと

静かに指摘されるんだな。

 

 

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※ 聖徳太子十七条の憲法については、「もしも今ここに聖徳太子がいたら・・・」

  に書いています。

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