真意はどこに?スッタニパータに教えなんてないよ
人間の作った教は汚れたもの
~スッタニパータ・曲がった八つの経より~
言葉って難しい~ (*´ω`)
伝言ゲームをやっていると、
伝えていくうちに、
はじめの文と、最後に読み上げられる文が、
全然ちがっちゃうことってある。
意味も、全然変わっちゃったりする。
( ´艸`)
・・・で、私はスッタニパータを読んで思う。
最初はこういうことだったんだ~って。
では、曲がった心の八つの経から、
このガーターいってみます。
784-5
自分の考えで作り上げたような教は
汚れたものに過ぎないのに
そんなものを尊んで
それを行えばこんなに立派になれると
自分を信じている人は
揺れ動くものにある(みせかけの)
平安にしがみついているのである
またです!
前にも書いたけど、
お釈迦様に「教」はないって言っているのに、
それを、「教」として人間の立場でつかんでいる。
それを尊んで、自分も従って、
他人にも従うことをすすめる。
「それに従えば、こんなに立派になれる」
と信じ込んでいる。
そんなのは、汚れたものにすぎないって~?!
\(◎o◎)/!
人の考えや立場でつかんだものは、汚れたもの。
真理から直ちにくるものだけが、清らかなもの。
お釈迦様は、ただその真理にしたがってゆかれただけ。
なのに、それを固定して、「教」というものを作り上げて、
「これが、お釈迦様の教えです。」
なんて、これが絶対正しいかのように言って、
それに従うのをよしとするのは、
お釈迦様を汚すことなんだな。
毎田先生はおっしゃる。
「ここに真理はあるじゃないか!」
「人間が作った教などの存在の余地はない!」と・・・
そんな「教」に従うのは、
みせかけの平安にしがみついているだけだと・・・
「お釈迦様の教えは・・・」とか、
「仏教では・・・」とか、
偉い学者さんや、お坊さんがおっしゃることも、
もちろん、私がここにこうして書いていることも、
もし、お釈迦様が見られたら、
「私はそんなことを言った覚えはない」と、
言われるのかな?
そして、
親鸞聖人も、「弟子一人も持たず」と言われたように、
お釈迦様にも、(弟子と言われる人は、たくさんいたけど、)
ご本人にしてみれば、
ただいっしょに真理の道を行かれる友であって、
弟子として、教育しようとか、
そんな意識はきっとなかったんだな。
言葉は方便。
(またまた調べると・・・
方便・・・仏教で、人を真の教えに導くための仮の手段・・・とある。)
その奥にある真意に耳を傾けないと・・・
誤解も生じる。
伝えるって難しいですね。
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