真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

すべての人が偽善者? いきなり喰らったスッタニパータの一撃!

 賤民をバカにしている場合じゃないよ!

~スッタニパータ・賤民の経より~

 

今日は、(今日も?)全くの、ノープランです。(+_+)

これ、なかなかいい。(^^♪

書いてみてから、題をつけるの・・・

 

本を開いてみよう・・・

 

📚 パッ・・・・・

 

出た! 

賤民の経からです。

 

116-1

いつもいらいらしていて人のあらばかり探し 

意地悪で無慈悲で

偏見に捉われた偽善者 

彼を「賤民」と知るべきである

 

いきなり、厳しいの来たな~ Σ(゚∀゚ノ)ノ

お釈迦様のパーンチ!!!✊  

 

 

「賤民」っていうのは、一番身分が低くて、

差別されていた人たちのこと。

 

・・・で、「賤民の経」っていうのは、

「おまえたちは、賤民のことをバカにするけど、

自分たちこそ、賤民じゃないか?!」

って・・・賤民の具体的な姿が語られていく経。

 

ここで言われる、「賤民」とは、

生まれによるものではなくて、

行いによるものなんだな。

 

まず、「いつもいらいらして」とある。

これ、👀が外に向いている人。

外へ向かって、👀を光らせているから、

あれもこれもと、世間や他人のあらばかり気になる。

まるで、世間や他人のあらさがしが、趣味かのように・・・

 

でも、人の行為のうらが見えるのは、

自分の中にも同じ欠点があるからだって。

それなのに、その、自分の中にある欠点には目をつぶって、

人の不正を指摘する。

そこに、快感がある。

これが、意地悪。

 

自分に👀を向けている人は、

自分の中にも同じ欠点があることを、知っているから、

「あ~あんなまちがいを犯してしまうのも、無理ないな~」

って思えるんだけど、

 

外にしか👀を向けていない人は、

自分の中にも同じあやまちがあるなんて、

夢にも思っていない。

自分は、絶対正しいと思っている。

だから、他人をずけずけと批難できちゃう。 

自分に👀を向けない限り、

慈悲の人とはなりえないんだな。

 

人の考えることは、一面的で、妄想でしかないのに、

それを絶対正しいと思い込むことを、

「偏見」って言うんだって。

その、一面的な考えを、固定して、にぎりしめて、

人に押しつける。

 

この、絶対正しいなんて、言えない固定した考えを、

「善」とすることが、偽善者なんだな。

 

でも、人は、世間に認められて、

どこかで、世間と調和していかないと、

生きてはいけない。

だから、こんな間違いだらけの人間が、

世間でうまくやっていくには、必ず偽善がある。

 

つまりは、世間でうまくやっている人は、

みんな偽善者ってことだな。

 

それを認めるか認めないか?ってことなんだな。

 

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