世間のきずなを絶ち切った勇者とは?スッタニパータに「べき」はないんだよ!
当為の脱落って?
~スッタニパータ・犀の角の経より~
毎田先生の本には、
「当為」という言葉がよく出てくる。
調べてみると・・・?
「あるべきこと」「なすべきこと」・・・とある。
この、「べき」っていうのが、
当為なんだな。
う~ん・・・あと~
「~しなきゃ!」とかいうのも、そうかな~?
毎日、これに、とらわれて、
ふりまわされているよな~。
「べき」「べき」「べき」・・・
なんか、固定されて、
がんじがらめになっちゃう感じ。
あんまり好きじゃないけど・・・(´・д・`)
でも、「べき」を無視したら、
大変なことになっちゃう気もする・・・(+_+)
犀の角の経から、これ読んでみよう。
44-10
葉の落ちたコビラーラの木のように
世俗の生活のしるしを取り去り
世間のきずなを絶ち切った勇者として
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう
この、「世間の生活のしるしを取り去り」っていうのが、
「当為の脱落」なんだそうです。
じゃあ、この人には、
「べき」がなんにもないんですね?
それで生きていけるんですか?
「べき」がいっぱいの私には、
正直、よくわからない。
でも・・・
「べき」にふりまわされて、
ヘトヘトになったとき、
「もういいや!」「もう知らない!」って、
一回投げ出すと、
「やっぱり、もう一回やってみようかな~?」
って気持ちになれることってある。
逆に、
「別に、目くじらたててやるほどのことでもないじゃん。や~めた!」
ってなることもある。
一回その捉われから、
自分を解放してみると、
気持ちが楽になって、
自然の行いが出てくるのかな?
そして、その「べき」にこだわるのも、
もとをたどれば、
やっぱり自分がちゃんとしてるって思われたい
・・・みたいなことだったりする。
世間では、自分の信念を、
何があっても曲げないで、
一方的に、自力を通す人を、
「勇者」というのかもしれないけど、
ここで言われる、
「世間のきずなを絶ち切った勇者」というのは、
世間にふりまわされるんじゃなくて、
すべてを包み込んでしまって、
自分は無となって、
世界の力そのものを、真理の力そのものを、
自分の力としてしまう人だそうです。
世間にいても、世間に捉われることのない、
まったく自然の生活があるだけ。
そこには、真理無常が働くだけ。
うん、なんか、かっこいいな!
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