真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

無欲になろうとするのも、欲?

無欲っていうのは意志ではなくて認識のこと

 

無欲になろうとするのも欲?

意志で意志を絶ち切ることはできない?

じゃあなにによって、無欲になるの?

 

 

スッタニパータにはこんな表現が出てくる。

 

彼は貪ることにも夢中にならないが

欲を離れることにもむきにならない(795)

 

何故なら彼は貪ることにも 

貪らぬことにも

共に執着していないから(813)

 

そこには生きようとする強い願いも

又生きることを止めようとする強い願いも 

そのどちらもない(856)

 

そうして安らかに 利己心を離れて 

取ることもなければ 

また捨てることもない(954)

 

摑んでいるものがない 

どうして捨てねばならぬものがあろうか(919)

 

 

お釈迦様は、

苦しみのもとは欲望だと言われる。

 

そこで、

「わかりました!がんばって無欲になります!」っていうと、

「いやいや、それも欲望だぞ!」って言われる。

「え~?!じゃあどうしたらいいの?」ってなる。

 

するとお釈迦様はおっしゃる。

「じゃあ、試しに、がんばって欲望をなくそうとしてごらん。」

「どんなに自分でがんばったって、すべての欲望を絶つことなんてできないのが人間だから。」

 

じゃあ、なんにもしなくていいってこと?

 

無欲になるのは、

意志じゃなくて、認識によるんだな。

 

知ることによって、

必然的に無欲の状態になる。

 

「無欲にならなきゃ!」なんていう当為じゃない。

 

「早く寝なきゃ!」って思えば思うほど、眠れなくなるのといっしょかな?(◎o◎)

 

知ることによって、起ってくる感情が、

人を欲望から解放するんだって。

 

「人間は欲望のかたまりだ。」

「これも欲望だな。」

って知って、

自覚することで、

やっとその執着から抜け出せるってことなのかな?

 

戦うのをやめることで、

そこから解放されるっていうことなのかな?

 

なんかよくわからないんだけど、おもしろい。 (*'ω'*)

 

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