真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

平和でないのは、自分だけ???二転三転!びっくりスッタニパータ!!

平和を求めるべきは、ただ自分の心の内だけ

~スッタニパータ・速やかなことの経より~

 

こんなゲーム、あるでしょう?

 

答えを、出題者に、耳打ちしていって、

「正解!」って言われた人は、正解ゾーンに行って、

わからない人が、どんどん取り残されていくやつ。

  

このガーターを読んだとき、

私は、あのゲームを思い出しました。

 

最後に取り残されて、

みんなが一生懸命ヒントを言ってくれているのに、

ひとりだけ、全然わからない・・・( ;∀;)

 

速やかなことの経からです。

 

919-5

修行者は 心の内が静かであればよい 

外の世界に平和を求めてはならない

心の内の静けさを保つものにはー 

摑んでいるものがない どうして捨てねばならぬものがあろうか

 

920-6

海の内側には 波が起らず そこが不動であるようにー

修行者は欲情を離れて 外から動かされることなく

どこにいても思い上らぬようにするがよい

 

ちょっと、話がつながらなかったか・・・?

 

これを読んで、二転三転したんです。

 

まずは、私の思い込みはこう。

 

「外の世界が平和にならない限り、自分の平和はない。」

 

でも、ここには、

 

「自分の心が平和ならいい。外の世界に平和を求めちゃだめ!」って書いてある。

 

外の世界に平和を求めようとすれば、

必ず、自分が平和になるには、こうしなきゃ!っていう方向に、

他人を動かすことになる。

 

でも、それは難しい。

 

他人をどうこうしようとして、誰かと対すると、

必ずその人に捉われることになって、

それが、苦しみのもとになっちゃう。

 

そもそも、誰かを、世界を、平和にできるなんて思うのは、

思い上がりなんだったな。

それができるのは、真理だけ。

それは、真理に任せるしかないんだったな。

 

自分の心の平和を得るには、

つかんでいるものを、

主張や、立場や、見解や、

人に押し付けようとしているものを、

自分が捉われているものを、

捨てるしかないんだな。

 

そうして、平和を得た姿だけが、

誰かの・・・世界の・・・平和のもとになるんだな。

 

(・_・D フムフム・・・

 

ここで、ちょっと、わかったつもりになったところで、

また、毎田先生の一撃が来ます!

 

「何をわかったつもりになって、いい気になっているんだ?

そもそも、この世でわかってないのは、おまえ一人だぞ!

平和を求めて、いまだ平和を得られず、ひとりうろうろ迷っているのは・・・」

 

「他の人たちは、もうすでに、平和なのだ。

ただひとり、わからずに、うろうろしているおまえを、救おうとして、

みんなで、悪になり、善になり、真理というものを見せてくれているのに、

 

自分だけが、わかった気になって、

世界を平和にするには・・・?  なんて考えているんだろう

おおまぬけの、コンコンチキなやつだな!」

 

・・・で、さっきの話。

ゲームで、最後の一人に取り残された気分になったのでした。

 

 

そして、そして、

このガーターの、最後の一文にあるように、

どこにいても、思い上がらないようにしなきゃ!って、

またまた「ぶるん!」となりました。

 

また、もぐらたたき、はじめ!

 

うっかりすると、すぐ、思い上がりのもぐらたちが、

どんどん、顔を出し始める。

 

他人のことああだこうだ言っている場合じゃなかったよ・・・ 😕

 

 

 

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