真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

他人をどうこうしようとする限り、平和へは至れない。救われていないのは自分一人。

自分の心の平和に専念すれば、真理は自然に他人の平和実現に向かう。

~速やかなことの経より④~

919-5

修行者は 心の内が静かであればよい 

外の世界に平和を求めてはならない

心の内の静けさを保つものにはー 

摑んでいるものがない 

どうして捨てねばならぬものがあろうか

 

920-6

海の内側には 波が起らず 

そこが不動であるようにー

修行者は欲情を離れて 

外から動かされることなく

どこにいても思い上らぬようにするがよい」

 

 心の中の平和を得るために、

他人をどうこうしようとすると、

自分の望む平和の方向へ、

他人を動かさなくてはならない。

 

他人を動かそうとすると、

他人の自由と衝突するから、

平和の意に反して争いになる。

 

他人のことは、その人に任せるしかない。

 

私に他人の心の平和を実現することはできない。

 

それができるのは真理だけだ。

 

自分一人の心を平和にすることに専念すること。

 

これは、世間の常識では

自分勝手と思われるかもしれないけど、

その他に世界を平和に向かわせる道はないと言われる。

 

そうすれば

自然に真理は他人の平和の実現へと

向かっていくのだと。

 

他人を救いたいなら、

自分が救われること。

 

他人を信じさせたいなら、

自分が信じること。

 

それより他に道はない。

 

な~んてわかった気になった・・・と思ったら、・・・

これこそとんでもない思い上がり!

 

更に続く毎田先生の解説にはこう書かれている。

 

外の世界はもうすでに平和な世界であり、

この世で救われずにまだうろちょろしているのは、

自分一人なんだと。

 

他のすべての人は、もう救われていながら、

その最後まで救われずにいるこの私一人のために、

悪役や敵役となり、また味方役となり、

様々な現象を見せてくれる

如来の化身なんだと。

 

それに向かって

私が救ってやろうなんて考えるとしたら、

この上ない思い上がりだな。

 

そしてそして、

その救われた人の心の姿とは・・・?

 

「摑んでいるものがない、どうして捨てねばならぬものがあろうか」

 

これです!

これこそが平和!

 

これが私のものだ、見解だ、主張だ、立場だ、と言って

人に押し付けるものがなにもない。

 

そのなにもなくなったところに、

すべてが光となって現れる。

 

そこは海の内側のような静かな世界。

 

海の上でどんな波が起ころうと、

それに揺るがされることのない平和な世界。

 

そして、最後にまたダメ押しです。

「どこにいても思い上がらぬようにするがよい」とは、

謙虚になったかと思えば次の瞬間にはもう思い上がっている、

このどうしようもない自分に気づいて、

頭を叩いていなさいということですね。

 

まるでもぐらたたきだ。

一人もぐらたたきだ。

まさに、他人のことを構っている暇なんてないのだ!!!

 

 

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