真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

本当のことしか言わない人?本当にそんな人いるの? うん、読めばわかるよ!スッタニパータ

喜びをもって語られる、真実の姿

~スッタニパータ・雪山に住む者の経より~

 

私が、スッタニパータを通して、

お釈迦様のお話を聞きたいって思うのは、

ど~うしても、知りたいことについて、

うそのない言葉で、

ありのままに語ってくれるから。

 

そして、決して、押しつけない。

「何を聞いても、それにとらわれちゃいけないよ。」

「参考程度にして、自分の見たり感じたりした、真理に従いなさい。」

と言われる。

 

そして、それを自分の都合のいいように、とらえようとすると、

「自分の都合に合わせて、真理をねじ曲げることが、真理に従うことではないよ!」と、くぎをさされる。

 

うそ偽りの世界に生活してると、

なかなか人の言うことを

心から信じることができなくなっちゃう。

 

「そんな、本当のことしか言わない人なんて、本当にいるの?」

って、疑って、確かめたくなる。

 

 

これも、そんなお話かな?

 

雪山に住む者の経から紹介します。

「サーター山に住む者」が、

「雪山に住む者」を誘って、

お釈迦様に会いに行こうとしている。

「雪山に住む者」は、

お釈迦様という方が、本当に信じられる方なのか、

本当にお会いする価値のある方なのか、

確かめているのかな?

 

154-2

「その人の心は  と雪山に住む者が問うた 

すべての生きものと一つに融けて 

快いことにも不快なことにも自由に働いているか」

 

155-3

「その人の心は  とサーター山に住む者が答えた 

すべての生きものと一つに融けて

快いことにも不快なことにも自由に働いている」

 

お釈迦様は、すべての生きものの、

「こう生きたい」って願う方向と一つになられる。

 

普通は、その、「こう生きたい」っていう方向が、

自分の都合と合っていると、

「ふんふん、この人は、よくわかっている。」

なんて、気分がよくなったり・・・

 

その、「こう生きたい」って願う方向が、

自分の都合と合わないと、

「こいつは、全然わかってないな!」

なんて、不機嫌になったりすることってよくあるけど・・・

 

お釈迦様は、そういうことがなくて、

どんなときも、変わらない、

慈悲の態度で、接してくださるんだな。

 

 

このあとも、同じような形式で、会話はつづく・・・

そこで、「雪山に住む者」によって、尋ねられることは・・・?

 

156-4

与えられぬものを取られないか

生きものを傷つけないように心を配っておられるか

微妙なものの動きを見逃さず 

いつも深くものを考えておられるか

 

158-6

うそはつかれないか

人を中傷されないか 

無駄口は利かれないか

 

160-8

欲望を起こされることはないか

無知を離れて 

物事のまことを見抜いておられるか

 

162-10

明らかな智慧に透徹しておられるか

全く清らかに生活しておられるか

煩いを絶ち切って 

又外のものに生まれかわられることはないか

 

 

で、「サーター山に住む者」の答えは、

 

すべて 「YES!」

 

いやなことを決して押しつけられることがない。

 

たとえ、どんな非難されるような行いにも、

必ずわけがあると、

その微妙な動きから、

その奥にある真理を見つめておられる。

 

うそや無駄口がなく、

わけのわからないことを言ったり、

人をバカにしたりせず、

いつも真実のことばで語られる。

 

偉そうな態度をとったり、

私利私欲にまみれることもない。

 

いつも真理だけを見て、

それに従って、迷いもなく、

清らかに生活をしておられる。

 

こんな人、いる~?!

 

でも、いるなら、ぜひ会って、

お話を聞きたい!ってなるよな~ \(^o^)/

 

もう、「雪山に住む者」は、感激!!

だって、信じられないような、

真実の人の姿を、

「サーター山に住む者」が、

喜びをもって語ってくれたから。

 

 

このあと、二人は連れ立ってお釈迦様に会いに行くのです。

 

きっと、喜び勇んで、ワクワクしながら、

ふたりで肩なんか組んじゃっ(たかどうかは、わからないけど・・・)て、

お釈迦様に会いに行ったんだろうな~ (o^―^o)

 

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