真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

お互い、なんの自由の邪魔にもならない、最高の仲間に出会えたら・・・素敵!スッタニパータ!

真実の人ってどんな人?

~スッタニパータ・犀の角の経より~

 

「あの人は、絶対に私をうらぎらない。」

これが、人を信じるってことだと思っていた。

でも、これって、単なる自分の都合に合わせた、

思い込みだったんだな。

 

毎田先生は、

「うらぎられた!」と嘆いていると、

「恨むなら、人間というものがわかっていない、自分を恨みなさい。」

と言われる。

 

うらぎられたと思って、

悲しみに沈んでいるのに、これはきつい!

 

でも、真理というものは、

そんなことお構いなしなんだな。

 

うらぎったと思われている、相手にしてみれば、

ただ、今現在の、正直な姿を見せているだけ。

 

それじゃあ、本当に信じられる人ってどんな人?

人を信じるってどういうこと?

 

私は、このガーターに出会って、

とても素敵だなって思った

 

犀の経からです。

 

45-11

もしも信の人 敬虔な人 智慧の人なる

明敏な友を得たならば

どんな危難をものりこえて 彼とともに

喜びに充ちて思いも深く歩いてゆこう

 

46-12

もしも信の人 敬虔な人 智慧の人なる

明敏な友に会うことができなければ

王者が征服した国を捨て去ると等しく

犀の角のようにただ一人歩いてゆこう 

 

「信の人」っていうのは、真実の人。

どんな人の奥にも、

その人の真実をみてそれに従っていく人。

 

その人の本当の気持ちに向き合って

本当の姿とともに生きるんだな。

 

「敬虔の人」っていうのは、

真理を敬う人。

真理には絶対に従う人。

 

自分の都合で考えたせまい枠に

世界を、誰かを、あてはめようとしない人。

 

智慧の人」っていうのは

物事をありのままに見て、

そこから真理を見極める人。

 

その目は、キョロキョロして

人のことにばかりに気を取られるんじゃなくて、

自分の内側をじっと見つめる

内省から養われるんだな。

 

こんな人は、

明るくて、さわやかで、反応がよくて、

あっさりサバサバしてる。

 

人に不快感を与えるようなことはないし、

いっしょにいると、光がさしたように、

パ~ッと明るいオーラで包み込んでくれたり、

ス~ッと気持ちを解きほぐして、楽にしてくれる。

 

最初のガーターは、

「もう、こんな人同士、出会えたら、最高!!」っていう

喜びにあふれている。

 

うれしくなっちゃうな。

 

こんな人同士がいっしょになったら、

お互い、なんの自由のじゃまにもならないどころか、

まわりの人たちのことも、

み~んな幸せにしちゃうんじゃないかな。

 

 

そして、次のガーターでは、

そんな友に会うことができなければ・・・とある。

 

「え~?そんな人、どこにいるの?」

「会ったことも、見たこともない!」

「本当に信じられる人なんて、どこにもいない。」

 

・・・なんて嘆いていると・・・

きっと、毎田先生は言われます。

 

「それは、自分が、まだ世間にしばられている証拠だぞ!」と・・・

「自分を世間にしばりつけているのは、自分自身だぞ!」と・・・

 

自分が見ている世間が

偽りだらけなら、もう、

「王者が征服した国を捨て去るように

思い切って、ごっそりと、

その偽りだらけの世間とのきずなを絶ち切りなさい!」

と、おっしゃるんですね?そして・・・

 

世間なんか、あてにしてないで、

犀の角のように独立者として歩みなさいと・・・

 

こわいです・・・

 

でも・・・

きっと、どんな人の奥にも、真実があって、

 

「ありのままに、自由に生きたい」

「みんなが輝く世界で、平和に暮らしたい」

 

・・・という、共通の願いがあるはず。

 

そこに融け合っていけたら・・・?

そしたら、きっと

信じられる仲間が増えていくのかな?

 

 

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