罪があるとかないとか・・・それどころか罪そのものを問題としない?
どこまでも捉われていく私たちをどこまでも解放しようと語られる
~大きい堆積の経より②~
青天の霹靂!
最古の仏典にこんなことが書かれているなんて!
898-4
戒律を最高のものと考えている人は
それを堅く守りながら
自分を抑制するところに
唯一つ清らかさがあるといっている
そして『これで身を修めれば 必ず清らかになる』と
生きるという(ことを肯定する一面的な)
立場に捉われているとも知らず
それで正しいのだと思っている
899-5
彼は若し戒律を破ったりすれば
罪のある行いをしたといってふるえおののき
再び戒律の生活へ帰って清らかになろうと躍起になる
あたかも隊商から離れたものが隊商の処へ
家を離れて生活するものが
家へ帰りたがるようにー
900-6
戒律を立派に守ろうなどと一切考えず
罪があろうとなかろうと
そのどちらの行いも共に捨てて
『清らかである 清らかでない』などと
願い求めることなく
静けさということにさえ捉われず
自由に生きてゆくべきである
戒律を守ることで清らかになろうとする人は、
生を一面的に捉えているその汚れを知らないと言われる。
仏教教団の戒律主義者は、
このお釈迦様の言葉にどう答えるのだろう?
そして、「罪があろうとなかろうと、そのどちらの行いも共に捨てて」と言われる。
罪があるとかないとかいうことよりも、むしろ、
「罪」そのものを問題にされない。
そして、「清らかであろう」などと願い求めることもなく・・・と言われ、
最後には、「静けさということにさえ捉われず」とまで言われる。
「静けさ」こそが尊いことだなんていう執着さえも捨てて、
自由に生きてゆけと言われる。
どこまでもどこまでも捉われていくであろう
私たちの先を見通して、
どこまでもどこまでも解放しようと、
ここまで言ってくださるのですね。
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