真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

他力的な努力によって、安らぎの世界へ? ふしぎ!スッタニパータ!

努力が牛?安らぎの世界へつれてってくれる?

~スッタニパータ バーラドヴァージャの経より~

 

バーラドバージャはお百姓さん。

毎日畑を耕して暮らしている。

 

それに比べてお釈迦様は乞食。

ひと様から食べ物を恵んでもらって暮らしている。

 

そこで、バーラドヴァージャは疑問に思って尋ねる。

「なんで働かないのですか?働かざる者食うべからずじゃないですか?」

 みたいに・・・

 

これ、まさに、釈迦に説法だな ( ´艸`)

 

すると、お釈迦様は、

「わしも、田を耕しとるんじゃ~!」

・・・ちがう・・・

  

「わたしも、実は田を耕しているのだよ。」

 

うん、こんな感じ・・・

にこたえる。・・・そこで、

 

「はあ~???」 

と思ったバーラドヴァージャはさらに尋ねる。

 

「あなたが田を耕しているところなんか、見たことないです。」

「ちゃんとわかるように説明してください!」 みたいに・・・

 

 ・・・で、お釈迦様は、

心の田に「信」の種をまいて、

それが「自由」の実になるまでを

本当にみごとに説明される。

 

・・・というわけで、 

バーラドヴァージャの経 の一節を紹介します。

 

79-4

努力が私にとってくびきをかけた牡牛であり 

これが究極の安らぎへと連れていってくれる

それは後戻りしないで進み そこへゆけばもはや悲しむことはない

 

なんだか不思議。

 

だって、努力っていうと、

目を吊り上げて、必死になって、

それでも報われないと、

悲しみのどん底に落ちちゃうイメージ。

 

「あ~、こんなに努力したのに、すべてが水の泡だ~!」なんて・・・

 

それなのに、

悲しみのない安らぎへ連れてってくれるって・・・???

 

ここでは、安らぎへ向かってひっぱっていってくれる、

牛のことを努力っていうんだな。

他力的なんだな。

 

親鸞教行信証の著作も、

お釈迦様の45年の行も、

この努力なんだって。

 

それは牛に引かれるように、

自然に導かれていく。

だから後戻りはしないで進んでいく。

 

真理の力に導かれて、

真理の呼び声に目覚めて、

力強く進んでいくんだな。

 

・・・今のことばで言うと

「ハマる」・・・みたいな・・・?

 

だれに頼まれたのでもなく、

だれに認められたいのでもなく、

何かをあてにするのでもなく、

何かの成功を勝ち取るためでもなく、

 

ただ純真に・・・

一心に・・・

ひたすらに・・・

 

やらずにはいられない努力

 

そして、それに従っていけば、

悲しみのない安らぎの世界へ行ける。

 

それを信じているからこそ、

心はそこに集中していけるんだな。

 

・・・っていうか、もうこの状態が、すでに、

安らぎの世界なんじゃないのかな?

 

きのうの 欲望の経 の最後で、

整理して残った欲望

 

「あ~、自分はこれをやるために、生まれてきたんだ~!」

って思えるような、

最も充実して、エネルギーがあふれてくる

至福のとき・・・

 

信の種って 本当はみんなもってるはずなんだって!

でも、それに気づかず、

埋もれたまま人生終わっちゃうこともあるのかな?

 

もったいないよ~!

 

この、信の芽は、

条件がそろったとき、

ポッと出るんだね。

 

「さあ、本来のあなたの、本当の姿で、思い切り自由に生きてごらん!」

そんな、慈悲の雨の恵みを受けて、

真理の光に照らされたとき、

すべての圧力から解き放たれて、

 

・・・・・・・😳「ポッ」・・・・・・

 

長い眠りから目ざめて呼び出されるみたいに・・・

 

それを、なるべくそのままに、

飾らずに、計らいなしに・・・

 

ひたすら真理に従って育てていけば、

すてきな自由の実がなるんだな~

 

☆彡書店開いています!☆彡

 

☆彡 もうひとつブログ☆彡