真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

これでいいのだ!これしかないのだ!

 

自分に不満がある、叶わないことがある、だから幸せじゃないという人は、本当はなにもわかっていないのだ。不満があるかどうかと、幸せかどうかということは本来は関係がないことなのだ。

 

note.mu

 

自分になりきってしまえば、どんな不満があろうと決して不幸ではないんだな。

っていうか、自分になるもなにも、すでに自分でしかないのだし。

 

例えば他の誰かさんを羨ましいと思うなら、一日だけチェンジしてみたらどうだろう?

そうだ!他の誰かの身体に乗り移ってみよう!(ただの妄想です)

 

自由気ままに遊びまわる小さな子どもが羨ましいな。チェ~ンジ!

「うわわわわ~早すぎる!動きが早すぎる!しかも、いきなりだ!何の脈絡もない!危ないよ!危ないったら!そんなに走っちゃ!だめだわ~ついていけない!疲れる~!」

 

今度は一日中ゲーム三昧の引きこもりの人にチェ~ンジ!

「いつまでゲームするの~?もうあきたよ~!外の空気吸いたいよ~!目はチカチカするし、肩はこるし、もう限界~」

 

じゃあ、今度は昼寝の好きなのんびり屋さんとチェ~ンジ!

「昼寝してたら半日終わったよ。あ~、じれったい!のんびりしすぎ!なんかイライラしてきた~!え~?また寝るの~?勘弁してよ~!」

 

かわいいセーラー服の女子高生とチェ~ンジ!

「スカート短くない?だめだわ~!足出すの苦手だわ~!しかも冬でも生足?無理無理!寒いの無理!」

 

超賢い東大生とチェ~ンジ!

「勉強・・・勉強・・・勉強・・・勉強・・・って、頭おかしくなりそう~!」

 

一日中ベッドでひたすらテレビを観ているお年寄りとチェ~ンジ!

「なんか、よく見えない・・・なんか、よく聞こえない・・・なんか、頭ボケっとしてきた~」

 

大富豪の奥様とチェ~ンジ!

「またパーティー?もう、窮屈なドレスやハイヒールはごめんだわ。それにおご馳走にももううんざり。胃がもたれますわ。たまにはお茶漬けが食べたいですわ。」

 

どれも無理だわ~!

私には私以外の人は勤まりそうにない。

私以外のみなさんは、それぞれご自分というものが、本当によく勤まっているな~!

そう思うと、私以外の人はすべて尊敬の対象になっちゃう!

 

そして、自分にできることは・・・?

今のそのままの、この時点での自分にそのままOKを出すことなのだ。

 

今この時点での自分に、ダメ出しされたとしても、

「自分てヤツはこうなんですよ~もうこれしかどうしようもないんですよ~ホントにすみません。」て言うしかない。

 

今この時点での自分を、褒められたとしても、

「や、これ普通に自分なんで・・・」っていう感じだから、誰とも比べようもない。

 

たぶん、いいも悪いもなくて、そうしたいからそうしている。または、いろいろ事情があって、そうするしかないからそうしてる。とにかくそうしているのは自分だから。

 

結局他人にはわからないかもしれないけど、まわりから見たら「なんで?どうして?こうすればいいのに・・・」と思われるようなことであっても、それが今の自分にとっての最善を尽くしているというわけなんだな。

 

だから、これでいいのだ!これしかないのだ!

 

 

☆彡書店開いています!☆彡

 

☆彡 もうひとつブログ☆彡

 

時間が癒してくれた傷はいつか宝物になる

昨日の坂爪圭吾さんのnoteで紹介されていた、「宇宙の大きさを体感できる動画」というのを観て、宇宙のことを考えながら、のんびり休日を過ごしていたら、なんだかふわふわとした変な感覚になった。

 

そして、ふと思った。

「もしかしたらこれ、誰かの夢の中かも?」

 

宇宙の広さを思ったら、自分や自分の人生があまりにちっぽけすぎて、はかなすぎて、私のこの人生、誰かのたった一夜の夢の中の出来事みたいなもんだ・・・とか思ってしまった。朝起きたらあんなこともこんなことも、すべて終わっていて、「あ~面白かった!」って言って目が覚める。

そんなふうに考えていたら、なんだか可笑しくなってしまった。

 

何かあるたびに、そのときは不幸だと思っていた経験も、今の幸せにつながっているんだ~!とか、失敗を恐れずに挑戦したら、きっと大きな力になるんだ~!とか、自分に言い聞かせながら一生懸命乗り越えようと、日々生きている自分。まだまだ今日も夢の中だ。大丈夫!

 

そして考えていくうちに・・・だからって、

「最初から、不幸になりますように!って思いながら努力する人っていないよな~」

「失敗することを目標にかかげて何かに挑戦する人もいないよな~」

なんて、当たり前のようなことを改めて思ったりした。

 

だったら、不幸なことも、失敗も、すべて天からのギフトだね!

 

note.mu

わたしは、小中学校でいじめにも遭ったし、大切な人と離婚もした。お金を持ち逃げされたり、無一文になってホームレスにもなった。こんなに怖い目に遭ったこともあれば、毎夜泣くほど不妊に苦しみもした。でも、そのすべてが、今となってはどれも良い思い出になりつつある。自分の人生を彩ってくれた、貴重な経験だと思える。人生には時間というものがあって、それはそのすべてをやわらげ、五感の記憶の生々しさをそのままにプリントしながらも、そこから離れていられる優しい場所を作り続けてくれるのだ。

 

辛すぎることがあったり、何日も答えのみつからないことで悩み続けて疲れてきたりすると、なんだか呆然として自分が遠くなるような気がすることがある。

「え?いいの?こんな目に遭っているのに、自分放っておいていいの?」みたいに、辛い自分から幽体離脱するかのように・・・

 

ひどく辛いときは、初めはご飯が食べられないとか、眠れないとかいう状態になって、

場合によっては、人とも普通に接することもできなくなる。

 

そのうちに、だんだんご飯を食べられるようになって、「こんなに悲しいのにご飯がおいしいなんて」って思ったり、普通に眠れるようになって、朝も普通に目覚めて、「あれ?そういえば、私、今辛いんだった。なあんだ、普通に寝て起きてるじゃん?」とか、誰かに声をかけられて笑顔で応えている自分に、「なあんだ、笑えるじゃん?」とか思うようになってくる。

 

今このときに辛い人へ、時間というものの優しさがそれを分解してくれますように。自分で頑張って忘れようとしなくても解決しようとしなくても、時間の作用がそこに働き続けていることに、力を抜いて委ねられますように。
「自分で変えなくていい、時間任せにしよう」そう思っていいこともあるのだと、どうか知っていてくれますように。

 

そして、またしばらくすると、ずっと胸いっぱいに広がって苦しかったもやもやが、少しずつおさまってきて、だんだん一つの小さな塊になってくる。それは決してなくなりはしないんだけど、ズシンと心の隅っこに落ち着いて、自分を見守ってくれるようになる。

 

いつかはそれも、生きた証・・・どんなことだって、自分に落第点をつける材料にしなくたっていいのだと思う。時間よ、あとは頼んだよ。そう思ってみるだけでも、なんだか救われるね。。

 

 傷は癒えるんだな。癒えた傷はいつか大切な宝物になる。

 

 

☆彡書店開いています!☆彡

 

☆彡 もうひとつブログ☆彡

 

「物語」から受け取った勇気が日々を変えていく

ここ何か月か、壇珠さんの毎日投稿に合わせて、振り返りもせず夢中で書いてきたブログ。

今日は、この辺でなぜかちょっと振り返ってみたくなって、これまで書いてきたものを読み返してみた。

 

そしたら・・・

 

これがもう、すごくいい!

あ~そうだった!そうだった!ってそのときの感動が蘇って楽しくなっちゃった。 

 

毎日壇珠さんのことばに触れるというのは、自分にとって息を吸うのと同じくらい、毎日の生活の中で大切なことになっている。そして、それを心に留めておこうと思ってブログに綴ってきた。でも、こうして読み返すと、日常のあれやこれやに振り回されて忘れてしまっていることもけっこうあるんだな~。よかった!読み返して・・・

 

そして、今日の記事です。

note.mu

 

これから主に何を書きたいかと考えると、自分が失敗したこと、自分が挑戦したこと、自分が勇気を出したこと、できるだけその実体験を書いていきたい。なぜなら、わたしが日々勇気や刺激をもらっている人は、そういう人だからだ。自分も少しでもそうなりたいと思う。この変化がとても嬉しい。

 

今朝読んだ本に、「情報」と「物語」という言葉が出てきた。

「情報」は消費するもので、新しい情報を受け取ると、古い情報は捨てられていく。でも、「物語」は出会ってしまうと、出会う前にはもどれないように、人生を変えてしまう。みたいなことが書かれていた。

 

私がブログを始めたのは、「物語」に出会ったからだった。まさに、「これは私のために書かれたものだ!」と確信してしまうほどの「物語」に出会ったとき、もう書かずにはいられなくなってしまった。それから次々とたくさんの「物語」に出会った。壇珠さんのブログも私にとっては「物語」だ。

 

ツイッターを始めたのも、もっともっと「物語」に出会いたかったから。もちろん、自分にとって有益な「情報」を受け取ることもたくさんあるけど、それは結果的には「物語」に通じるための情報だ。

 

そして、私はこのたくさんの「物語」に出会って、まさに人生が変わった!

自分がどんどん開けていく感覚。それが嬉しいし楽しい。もちろんまだまだなところもたくさんあるけど、私は以前よりもずっとチャレンジャーになれた。何か思いついても、以前だったらすぐに諦めて、「やっぱやめとこ!」ってなるようなことにも、ホントに少しずつだけど、自分の気持ちにまっすぐにチャレンジできるようになってきた。

 

・・・で、いきなりまとめに入ると・・・?

 

というわけで今日は、怖いっていいね、というお話でありました。
これはさすがに怖すぎるから、これだけはちょっと置いておこう、という、その怖いやつのことね。(笑)一気にでなくても、だんだんちょびちょび、合間を詰めていってみよう。そしていつか、そいつに王手をかけるのだ。

 

 怖いことに挑戦するようになると、思いがけない展開が待っていたりする。

それが本当に思いがけないから、わくわくしちゃう。

もちろん思い通りにいったらいったで「やった~!」ってなるんだけど、全然予想外のことが起きると、「そうきたか~!」とビックリする。まあ、全然期待外れの結果に思いきりズッコケちゃうこともあるけど、それはそれで楽しい。

 

そして、今考えていて気付いたのは、私にとって怖いことって、そのほとんどが、人と向き合うこと。誰かに向かって自分をさらけ出すこと。

 

「〇〇さんに会いにいく。」とか、「〇〇さんにずっと伝えたかったことを話す。」とか、「人前で〇〇をする。」とか・・・

 

なにが怖いかというと、自分が受け入れてもらえないのが怖い。一大決心をして挑戦したのに、拒否されたり、軽くあしらわれてしまうのが怖い。または、自分の本音が誰かを傷つけてしまうのが怖い。

 

つまり、怖いのは人なんだな。

勇気をもって自分を解放して、相手と打ち解けて一体になれたら、怖くなくなるのかな?

 

「これはさすがに怖すぎるから、これだけはちょっと置いておこう」なんてことにもいつか挑戦してみたいな。考えるとワクワクドキドキするな~!

 

あ~こわっ!

 

 

☆彡書店開いています!☆彡

 

☆彡 もうひとつブログ☆彡

 

もらいっぱなし、あげっぱなしの自由

 

「マイルールを消すのがマイブーム」という言葉に出会って、これ、私の中でもマイブームになっている。

 

最近の私は、どんなに好きでやっていることや、自分でやろうと思ってやっていることでも、ちょっとでも「やらなきゃ!」という気持ちがあると、「ならやめな!」 と自分に突っ込んでくる。そんな気持ちでやるのは純じゃない。相手がいることなら、相手に失礼だと・・・

 

しかも、またまた私にとってタイムリーな記事が・・・

 

note.mu

 

どんなにやりたいことも、知らず知らず無理をしてしまっていることってあるな~。「好きでやってるの!」「やりたくてやってるの!」って思い込んで、やらなきゃ気が済まなくなって、無理がたたるまで気づかずにやって、いつのまにか好きだったはずのことに振り回されてしまっているって、悲しい。

 

それではじめて、このままじゃいけないぞ。と思ったのでした。
それから、いろいろと考えました。メッセージをいただくと、とにかく嬉しい・・・・でも、嬉しいのとそれに返信するのとはまた別のことだなと気がつくまで、また時間がかかりました。

 

私はここでまた、お釈迦様のお話を思い出した。

お釈迦様は、托鉢をされるとき、食べ物をもらえるかどうかは、絶対相手の自由に任されたと。「喜捨」だけを求められたと。そこには返礼というものもなかったというお話も聞いたことがある。

相手との相対的な関係や、交換関係に陥ることを避けられたんだな。それは、どこまでも相手の独立と自由と人格とを尊重されたから。他人の絶対自由を承認する人でなければ、自分も絶対自由ではあり得ないから。

 

でも禁返を通して気がつきました。愛情って、本来はもらったら「もらいっぱなし」のものなんですよね。それで、それを受けて自分も相手に何かをしたかったら、それは返しているのではなくて、新たに自分発のものなのですね。だからそれももちろん、「あげっぱなし」にするものだと思うんです。

 

この、「あげっぱなし」というのが、すなわち「喜捨」ということではないのかな?

 

 

☆彡書店開いています!☆彡

 

☆彡 もうひとつブログ☆彡

 

やっちゃおう!生きてるうちに・・・

「いいな~」と思うんだけど、ちょっと私にはね・・・って思って諦めていることっていっぱいあるな~。自分にはできっこないとか、ガラじゃないとか思って、選択肢にも入れてないことだって、きっと無限にある。

 

あっ!でも、私には、普通はやろうとは思わないだろうことで、思いつきでやっちゃって、それ以来ずっと続いていることがある。

それは、自分の髪を自分でカットすること。

もう美容院へは15年くらい行ってない。・・・といっても、決して髪伸び放題の、原始人のような髪形になっているわけでも、昔の子みたいに、不揃いなおかっぱ頭というわけでもなくて、自分で言うのもなんだけど、なかなかいい感じになっている。

 

なぜそんなことになったかというと、「なんか美容院てお金と時間かかるわりに、望み通りの髪形にならないよな~」と、ちょっぴり不満に思っていた私は、「そうだ!自分で切ってみよう!」とあるとき思い立って、思い切って挑戦してみた。最初はちょっと怖かったんだけど、これがやっているうちに結構大胆になって、楽しくなってきて、しかもけっこう自分でカットした髪形が気に入ってしまった。

それ以来、ずーっと自分で髪を切っているのだけど、もうすっかり慣れてしまって、「あ、ちょっと伸びてきたな。」とか、「なんかここ気になる。」って思うと、すかさず洗面台に新聞紙を広げて、乾いたままの髪を、もういきなりはさみでジョリジョリ始める。全体を切るのも、だいたい20分もあれば終わるし、前髪だけとかなら、5分もあれば終わる。はたから見たら、「そんなやり方で大丈夫なの?」という感じだと思うけど、もう自分としては、これでバッチリなのだ。知らない人には、「どこの美容院に行ってるの?」って聞かれることもあるのだから。

かなりお金と時間の節約になるし、「髪の毛うざい!」って思ったら、夜中でも早朝でも、いつでも切れるので、とても都合がいい。

最近はセミロングレイヤーからショートボブへ髪形を変えてみたけど、これも思いがけず、なかなかうまくいった。・・・うふふ・・・

 

できっこないと思っていることとか、自分でやるなんていう発想がないようなことでも、やってみると意外とうまくいっちゃうことって、あるもんだなあ~・・・ 

 

note.mu

 

わたしたちにとって、今とても怖いと思えることは、やってしまったあとの自分にとっては「なんでもないこと」「むしろ快適なこと」かもしれない。それどころか「超楽しいこと」「魂がウキウキしちゃうこと」かもしれない。だのになのに、我々はやってみる前はそれが本当に怖いことに思えちゃうのだ。

 

 

でも、このように「やってみたい、でも怖い!」というところまで意識にあがっていることならば、あとはやるだけだ・・目をかっ開き、両腕を広げ、「男塾万歳ー!!」と言って崖から飛び降りるだけである。いやまあ、他の方法でもいいけどさ・・

 

いろいろな「いいね❤」を自分事として考えるようになってから、ああ、乗り越えてみればなんてことなかったのに!ああ、憧れとして選択肢の外に置いて置く必要なんてなかったのに!と繰り返してきて、今は「いいなあと思ったら→すなわち選択肢のひとつ」と思うようにしている。
これがね、意外と面白いのだ!

 

自分の「いいな❤」をそのまま「じゃ、どうする?」と自分に投げかけることで視界がクリアになっていけるって、嬉しい習慣だね・・・!

 

「いいな💓」

「YOU やっちゃいなよ!」

「え?やっちゃう???これ???」( *´艸`)

 

うん!それそれ!

面白そう!

可能性がどんどん広がるよな~ヽ(^。^)ノ

 

 

☆彡書店開いています!☆彡

 

☆彡 もうひとつブログ☆彡

 

人間あるある・・・「ルンルンルール」と「うんざりルール」

今日も「人間あるある」のご指摘に納得!

 

note.mu

 

気が付かないうちにわたしたちは、ものすごくたくさんの「マイルール」に縛られて生きています。

 

わたしはこれが、いわゆる「老化」の原因にもなると思っていて、ルールが少ない人ほど老化が緩やかになると思っています。
なぜかというと、ルール化したことって、もう考えなくて良くなるから、そこにイマジネーションや新たな発想を持ち込まなくなるからです。

 

 これってすご~く思い当たる!人間あるあるだな~!

 

しかも、場合によってはルールってだんだん強制になってくるんですよね。それが我慢につながっていってしまいます。そうなると、本人が不快であっても自分でもそのルールを破れなくなり、わたしたちの自由を狭めてしまいます。

 

子供はものの見方が大抵の大人よりもずっとニュートラルだから「ルールの中で遊びたい」のだと思います。好きなようにルールを履き替えて遊ぶ、それが子供の持っている自由だな、と思うんです。

 

そもそも子どもってルールを破るのが得意というか・・・

だいたいルールとかいって、強制されると反発したくなっちゃうんだな。

 

息子が小学生の頃、我が家には「ゲームは宿題をやってから!」というルールがあった。

のにもかかわらず、いつも学校から帰るとまずゲームが始まる。これ、守らせるの大変だな~と思って、あるとき「宿題はゲームをやってから!」に変えてみた。

「宿題やったの?」を「ゲームやったの?」に変えたら、珍しく宿題を始めるもんだから、

「ダメダメ!ゲームが先でしょ?早く宿題は片付けてゲームしなさい!」なんてね。

 

学校でなかなか守られないルール「廊下を走ってはいけません!」とかも、たまには変えてみてはどうだろう?

「今日一日廊下は歩いてはいけません!」とか・・・

そしたら、廊下をみんなでドタバタ走るかな?スキップしたり、ハイハイしたり、逆立ちしたりして、移動する子も出てきたりして・・・( *´艸`)

 

そうか、<ルール→強制→我慢→不快>これじゃうんざりだね。

「うんざりルール」だ!

この不快から脱出して自由になろうとするのが子どもなんだな。そして、自分たちで楽しいルールを作って遊んじゃう!

子どもの作るルールは「うんざりルール」と区別して「ルンルンルール」とネーミングしてみよう。

 

わたしたちの中には、この社会のそもそもの構造自体に真面目に反発して嘆くことを選ぶ人もいれば、そこでちゃっかり遊んじゃう人もいます。

 

そうだな~!ついつい真面目に反発して嘆いちゃうな~!

 

ようし!今日はせっかくだから、「ルンルンルール」でちゃっかり遊んじゃおう!

 

例えば・・・

今日は移動中の車で、やたらと信号が多くてちょっとイライラした。

まさにこれは交通ルールだ。このままじゃ「うんざりルール」だ!「もう、信号多すぎ!」と嘆くところを・・・?

 

「そうだ、いいことか~んが~えた~!」

「信号の色別で歌を歌っちゃうルール!(^^♪」

「赤は・・・♫真っ赤な太陽♫でいこう!」

「青は・・・♫う~み~は~青い~な 大きい~な~♫ いや、なんか違う・・・」

「お?よく見ると、青信号の色は緑でないか?じゃあ・・・」

「♫お~牧場は~み~ど~り~♫でいこう!」

「黄色は・・・?♫黄色いさくらんぼ~♫・・・えっと前後の歌詞なんだっけ?」

「まっいいか!だいたい黄色はすぐ変わっちゃうし・・・」

 

・・・というわけで早速やってみた。

「お?赤かあ~♫真っ赤にも~えた~太陽だ~から~真夏の海は~恋の季節なの~」

「青だ!(^^♪お~牧場はみどり~草の海 風が吹く♫ 次も青! ♫お~牧場はみどり よくしげったものだ ホイ!♫ またまた青! ♫雪がとけて 川となって 山をくだり 谷を走る~ 野を・・・」

「おっと、黄色だ!♫黄色いさくらん・・・♫ みじかっ!!♫真っ赤にも~えた~太陽だ~から~真夏のう~みは~恋の季節なの~♫ えっと???ティラティラティーラリ~ティラティラティ~ラリ~(歌詞が出てこない)ティラティラ・・・おおっと~青だ!♫お~牧場は~~~・・・」

 

こりゃいい!こりゃ楽しい!!

 

そして帰り道・・・

「♫真っ赤にも~えた~太陽だ~から~・・・お~牧場はみどり~・・・黄色いさくらんぼっ・・・♫ふー(+o+)・・・」

 

これですね?

そこで私はふと気づきました。もう飽きてるじゃん!うんざりしてるじゃん!

 

「ルンルンルール」がいつのまにやら「うんざりルール」に・・・

こういうことですね?ここで老化が始まるわけだ・・・

 

地球に遊びに来ているのだと覚えていられると、ルールは遊びの大切な要素となります。その中で、自分を狭めるルールを更新することは非常~に効果のあるアンチエイジングなのだと思うのです。

 

な~るほど、な~るほど・・・

 

ルールは遊びの大切な要素!

 

老化が始まる前に更新!更新!!

 

 

 

☆彡書店開いています!☆彡

 

☆彡 もうひとつブログ☆彡

 

魔法の扉はいつ開く?

 

私は、ときどき自分の中に、魔法の扉があるなって思う。

その扉が開いたとき、特別な世界と通じて、「奇跡」と呼べるようなことが起こる。

たぶん、その扉からなんらかのパワーが流れてきて、私を通じて働いて、奇跡を起こしているんじゃないかと思う。

その特別な世界というのは、イメージとしては、宇宙とか、神様とか、自然とか、真理とか呼ばれているような、すべてを包み込んでいる、すべての人に通じているような、普遍的な世界。

 

問題は、その扉がどういうときに開くかということだ。

 

例えば、とにかく一生懸命がんばってがんばって、開くまで扉を押しつづけて、最後いよいよバーン!!!っと体当たりしたら開くことがある。

 

でも、だからといって・・・

「そうか、諦めないで押し続ければ、必ず魔法の扉は開くんだ!どうしてもだめなら体当たりだ!」って思って、また同じようにやっても開かなかったりする。

  

「え~?どうして?!」って、いろいろやっているうちに、今度は引いたら簡単に開いちゃったりする。

 

「なあんだ、引けばよかったのか?!」となる。

 

そしてまた次、今度はいくら引いてもいくら押しても開かない。

「え~?なんだよなんだよ~!前は開いたのに~」となる。

 

もうそういうときはあきらめて休憩する。そして、そのうちに扉のことは忘れて眠ってしまったりする。

 

ところが、目を覚ましてみると、なんと扉が開いていた!なんてこともある。(『小人の靴屋』みたい)

 

「なあんだ、寝てても開くんかい?!」と思って、「もう頑張るのやめた!寝て待とう!」となる。(ん?こんなお話もどこかにあったような・・・)

 

そして、目が覚めて見ると開いていない。じゃあもうひと眠り・・・と、何度も何度も寝て起きてみるけど、一向に開く様子はない。

 

いやあ~手ごわいなあ~。

いったい魔法の扉はどんなときに開くの?!

 

 

さて、それと関係あるのかないのかさっぱりわからないけど、昨日は壇珠さんの記事

242/1096 想像してみて・・・!|壇珠【タンジュ】(ミユ)|noteと、

昨日壇珠さんがツイッターで紹介してくれていた、

「自分探し」から「自分無くし」へ | meisouartist 大島ケンスケのブログの記事を読んだ。

 

 

まずは『「自分探し」から「自分無くし」へ』を読んで、

 

もしかして、この魔法の扉を開ける方法も、探すのをやめたらいいのかな?と思った。もう、扉を開けようとすることに捉われなくても、そんなこと忘れて、楽しく飛び回ったり休んだりしているうちに、いつのまにか扉がなくなって、もう奇跡がダダ洩れの世界にいたりするのかも?

 

 

そして、壇珠さんのこちらの文章にもグイとつかまれました。

 

わたしはわたしを連れて行く人でありながら、わたしに完全に任せて連れて行かれる人でもある。そのどちらにも偏りすぎないで、どちらでもいたい、その真ん中にバランスしていたい、という思いが湧いてきて、そのときにとてもとても澄んだ、生きていることへの感動が湧いてくる。

  

「よし!ついて来い!」といつも自分をリードしてくれる自分。多少怖いことでも彼(男役?)について行けば大丈夫!と思わせてくれる頼もしい自分。お任せしておけば、いろんなところに連れて行ってくれて、私を楽しませてくれる。

でも、ときどき私の気持ちを無視して無理をさせようとするから、そんなときは、「ちょっと休もうよ。」と言ったり、「それだけは嫌だな。・」と抵抗したりしよう。

 

そうか、この2人(?)の自分が、仲良くなれば魔法の扉は開くのかな?

 

 

☆彡書店開いています!☆彡

 

☆彡 もうひとつブログ☆彡