真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

もらいっぱなし、あげっぱなしの自由

 

「マイルールを消すのがマイブーム」という言葉に出会って、これ、私の中でもマイブームになっている。

 

最近の私は、どんなに好きでやっていることや、自分でやろうと思ってやっていることでも、ちょっとでも「やらなきゃ!」という気持ちがあると、「ならやめな!」 と自分に突っ込んでくる。そんな気持ちでやるのは純じゃない。相手がいることなら、相手に失礼だと・・・

 

しかも、またまた私にとってタイムリーな記事が・・・

 

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どんなにやりたいことも、知らず知らず無理をしてしまっていることってあるな~。「好きでやってるの!」「やりたくてやってるの!」って思い込んで、やらなきゃ気が済まなくなって、無理がたたるまで気づかずにやって、いつのまにか好きだったはずのことに振り回されてしまっているって、悲しい。

 

それではじめて、このままじゃいけないぞ。と思ったのでした。
それから、いろいろと考えました。メッセージをいただくと、とにかく嬉しい・・・・でも、嬉しいのとそれに返信するのとはまた別のことだなと気がつくまで、また時間がかかりました。

 

私はここでまた、お釈迦様のお話を思い出した。

お釈迦様は、托鉢をされるとき、食べ物をもらえるかどうかは、絶対相手の自由に任されたと。「喜捨」だけを求められたと。そこには返礼というものもなかったというお話も聞いたことがある。

相手との相対的な関係や、交換関係に陥ることを避けられたんだな。それは、どこまでも相手の独立と自由と人格とを尊重されたから。他人の絶対自由を承認する人でなければ、自分も絶対自由ではあり得ないから。

 

でも禁返を通して気がつきました。愛情って、本来はもらったら「もらいっぱなし」のものなんですよね。それで、それを受けて自分も相手に何かをしたかったら、それは返しているのではなくて、新たに自分発のものなのですね。だからそれももちろん、「あげっぱなし」にするものだと思うんです。

 

この、「あげっぱなし」というのが、すなわち「喜捨」ということではないのかな?

 

 

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