真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

菩薩になりたくば悪人になるべし!

うふふ・・・今日の記事を読んだら、わたし、まだまだだ~って思うと同時に、嬉しくなってしまった!

note.mu

 

この記事に書かれているような、壇珠さんの悪人ぶりに憧れてしまう。

語弊があるかもしれないけど、わたしはこういう屈託のないわがままな人が大好きだ。

  

わたしは普段の生活でものすごくマイペースだし我慢を極力しないから、夫が栗井でもその気持もわかる気がする。それよりも日頃の感謝や尊敬が圧倒的に大きくて、怒ってもそれが一瞬で過ぎ去ってしまう。

 

じゃあその日頃の感謝がどこから出てくるかというと、悪人の自分を受け入れてもらっていることからだと思う。そこからついつい夫に対して感謝を持ってしまっていて、なにかで怒ってもすぐにスッキリしてしまうから・・

 

だから、悪人の面を見せている方が、ずっと楽。

 

菩薩になりたくば悪人になるべし?!なのかもしれません。

 

というわけで今日は、ストレスのある人は、日常の小さなところから、我慢をしないで頼ったり甘えたりしてみませんか、というお誘いでありました。

 

人間関係を良好に保とうとして、ついつい自分で勝手に我慢してしまっていることってけっこうある。 それを少しずつできそうなところから解除してみて、「あ、ほら、これ我慢する必要なかったんだ~我慢しなくても大丈夫だった~」ってなっていくと、逆に、親密になれたり、ただの無難な関係でなくて、やりとりが楽しくなったりすることってある。

悪人の面を気楽に見せてしまうことで、相手もほっとして自分を開いてくれるのかも?

その方がきっとかえって、自分も和らいでいる。

 

「菩薩になりたくば悪人になるべし!」これ名言です!

 

 

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「嫌われる勇気」は静かな覚悟

こちらの記事にはとっても考えさせられる。

何度も読んじゃった!

 

note.mu

 

・わかってほしいことを口に出すべき、これって本当にそうだろうか?なんだかいかにも正しく聞こえるけれど、相手に「わかってほしい」と思ったときは、往々にして自分で自分のことをわかっていないときだ。それを他者に向かって言っても解決しないよ。

 

勇敢に戦っているつもりでも、だいたいこういうときって、わかってもらおうと、言葉を重ねれば重ねるほど、どんどんこじれて、「こんなに言ってもわからないなんて・・・」ってなるな。

 

・人はわかり合ったりはできないよ。みんなどこまでも、それぞれの宇宙にいるんだから。わかり合えるはず、わかり合うのは良いこと美しいこと、という強固な思い込みがあるから余計な期待と失望が生まれる。

 

夕べ聴いたBTSの『小宇宙』という歌の歌詞にもあった!

♪1人にひとつの歴史 1人にひとつの星 70億個の光で輝く 70億種類の世界 ♪

別々の歴史をもって、別々の世界に生きる他者とわかり合えるなんて、妄想なんだな。

 

・「人にどう思われるかを気にせず、思ったことはなんでも正直に口に出そう」っていうのができない、って・・やれたらおかしいでしょう。「あなたブスですね」「そんなに財布に金入ってるなら俺によこせよ」「こいつのおっぱい触りてえ~」などと口に出せば良い生き方だと本当に思っているのだろうか。心配になるレベル。。。

 

確かに怖い・・・っていうか、そんなの無理だ。

そもそも思った瞬間に、それ口に出したら相手がどう思うかを、自分が直感的に体験してしまって、嫌な気分になっちゃうから、いくら言えって言われたとしても無理かも。

 

・湧いてきた感情は、決して他者にぶつけるためにあるものではないはず。だから、何でもかんでも他者にぶつけるなんてこと、選ばなくていいんだよ?頼むよ・・・・

 

・・・ですよね?・・・そうでした! 

 

・口に出すことばかりに重要性を見出している人が多いけれど、口から出さずに引っ込めることの重要性はあまり語られない。いつも感情に任せて言いたい放題言いすぎて問題を作ったり人間関係を壊したりしてしまう人は、一旦黙ってリラックスしてじっと感じてみるのも手だ。。

 

その湧きおこった感情を抑えようということではないんだな。

自分でその感情をじっと見つめてみることをせずに、口に出して相手にぶつけてしまうのは、かえって本当に伝えたいことを伝えにくくしてしまうことだってある。

だいたい戦闘モードになっているときは、とにかく自分をいかにアピールするかに意識がいっていて、状況がよく見えていなかったりする。

 

・上のようなことを書くと、口に出さないから本音がわからないんだと思います、というコメントが必ずつく。本当に人は「口に出さなければ、本音はわからない」のだろうか。「言った、言わない」に重きを置きすぎだと思う。黙って行動パターンを変えること、少しずつ欲しいものを自分に与えていくこと、嫌なことを徐々にやめること、瞑想などで自分を見つめる時間を重ねること、楽しみに没頭すること、身体をもっと動かしてみることなど、色んな方法がある。

 

わあ~、こんなに対処法がたくさん・・・実行できそうな・・・

あと、誰にも言えないことで悶々としてしまうときは、自分と対話をしたり、書いてみたりすることで、「あ~それで?そういうことかい?」みたいに意外な自分の本音が見えてきたりすることもある。

 

・そもそも「本音は言いにくくても言おう」というのがおかしくて、言いにくい以上は本音じゃない。相手が傷つくだろうけど言おう、というのはそこに勘違いがある。その発想ってすごく自暴自棄で、傷つけちゃえ、嫌われちゃえ、それができるってすげえ!って無茶苦茶である。それを「無茶苦茶でいい」「そんな俺を愛していく」と美化するのはズレているのでは。その前に他者をなんだと思っているのだろう。

 

「本当はこんなこと言いたくないんだけど・・・」みたいに前置きして言っちゃうこともあるけど、「なら言わなきゃいいじゃん?!」って自分に突っ込まれる。「あなたのためを思って言いにくいことを・・・」とかいうのも、「それ、一番うざいやつ!」って思う。そうか、言いたくないなら、「言いたくない」が本音だもんね?

それに「これは言うべき!」「言えるのがかっこいい!」という、どこかからもってきた価値観を自分に当てはめて、無理している姿は、どこかぎこちなくてカッコ悪い。

 

・「あんた見てると気分悪いわ」といえば相手は傷つくけれど、そもそもそのときの自分の本当の本音は「わたしはあなたを見ていて勝手に傷ついて嫌な思いをしてしまいました」などというものであって、それで相手は傷つくだろうか。人に「相手を傷つけてまで本音を口に出して言え」と誘う人は、自分が傷ついているのさ。。

 

うふふ・・・なるほど、自分が勝手に傷ついたり、嫌な思いをしているだけなのに、それを相手にぶつけても、ぶつけられた方はたまったもんじゃないな~。

 

そもそも「本音を言う」とか、「自分の気持ちをちゃんと伝える」というより、「相手を傷つけることで、傷ついている自分を少しでも救いたい。」とか、「優位に立ちたい。」といったところが真の本音だったりするんだな。

 

・自分の感情に思考が入り込んで癒着していて、自分が騙されているのかも知れないよ。だからそれを使ってみるまえに落ち着こう。あえて感情のままに人を傷つけて嫌われてみた、それを勲章のように言うのは幼稚なこと。

 

そうか~!欲しいのは勲章だったんだ~!そういうことか~!

 

・わたしはこうして欲しい、わたしはこれをして欲しくない、ということをちゃんと伝えていくのが良いのだと思う。でも、いちいち嫌われ前提、争い前提、である必要はないじゃないか・・・
「もしそれによって嫌われることがあったとしても、それを受け入れよう」という心構えがあると自分を偽らずに済む。それはとても良いけれど、そのためにはじめから他者に対して好戦的である必要はゼロだ・・・

 

これはこれは、とても納得できる!ヽ(^。^)ノ

伝えたいことをちゃんと伝える勇気のことですね?伝わるかどうかはあちら側のこと。伝えたいことを誠意をもって伝えたら、あとは相手がどう受け止めるかは相手に任せる。そこに初めから身構る必要はないのだな。ただただ誠実であることだな。

 

・『嫌われることをいくらでもできる傍若無人な人、というアイデンティティを着て、それを演じることで自分を強く見せようとしたり偽りの自尊心を補おうとすること』と、『できることなら仲良く楽しく居たいけれど、本当の望みを伝えたときに嫌われたり離れたりすることがあっても、それもまた大丈夫、と自分を受け入れていること』との差を見極めよう!

 

うわ~、自分でよくよく考えて、かみ砕いてから読んだら、最初読んだときより、とてもスーッと入ってきた!

 

というわけで、嫌われる勇気って、ちっともアグレッシブになろうということではなく、自分に嘘をつかないという、自分に優しい静かなる覚悟だと思う。それから、本音ってそんなにカッコいいものじゃなくて、ほとんどの本音はみっともないものだよね(とくにわたしはそうです、笑)

 

「嫌われるのなんか恐れるな!どんどん言っちゃえ言っちゃえ!」ではなくて、

「もしも万が一嫌われたとしても、自分に正直になった結果だもの。」という静かな覚悟があるかどうかですね?

心でつぶやいたこと、全部口に出してたら、やばすぎる!

どうして本音で語らないの?って自分にときどきイラつく私は、この記事を読んでちょっと安心しました。

 

 

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楽しいものを楽しみ続ければ奇跡は起こる?

こちらの記事、いろんな意味で身近に感じてしまって、ニマニマしてしまいましたよ!

 

note.mu

チャレンジをやめないといえば、わたしは今現在、ほぼインポッシブルと思われる、あるミッションに水面下で挑んでいる。その難易度の高さ、東大入試級・・・!そのミッションにおいて、先日奇跡的な大きな変化が起こったため、今日はそれをここに報告しようと思う。

 

ちなみに、これを書くのに苦悩しなかったわけではなく、「この人は大丈夫なのだろうか」「ちょっと精神がアレなんじゃないか」と思われてしまうリスクを承知の上でのことである。


しかし、男の愛の広さたるもの海のごとし、ということを伝えたくて書いてみることにした。ええい、頑張れ自分!

 

そのミッションが何なのかと言うと、「わたしの愛するBTSを夫にも愛させよう」という、まさに勝手極まるもの。人を変えようとする、入信させようとする、エゴ全開の活動だ。これがまた、とにかく超難関のミッションなのである・・・・・

 

まずはこのミッションにビックリ!!! 

 

と同時に、これは侮れないぞ!と思った私は、早速BTSについて調べてみた。

 

最初は興味がなかったが、あ~K-POPかあ、こういうのはさすがにダメそうだ~・・・第一こういうのは元々アイドル好みの女性がハマるものなんじゃないかな、わたしはメンズにはメンズであってほしいのよ、筋肉・ヒゲ・胸毛こそが男ってものじゃ→ゴメン見たら死んだ
という経緯で愛してしまった。アイドルというものについて持っていた先入観のすべてを破壊された経験だった。

 

彼らは音楽シーンの第一線で曲を作るアーティストであり、一流のダンサーであり、素晴らしいラッパーでありスペシャルなシンガーである。血と汗と涙にまみれた信じがたいほどの努力によって保たれているそれらの実力は、すべてがハイレベル。かつ、放つメッセージが愛でしかないという、今この惑星を変えようとしているとまで言われるグループである・・・!
彼らのファンに対する愛は、わたしがこれまでに見たことのないものだった。さらに、世界中のものすごい数のファンたちは言語の壁を超えてつながりあっていて、その国境をまたいだ人間愛もまた見事なものなのだ。

 

そして、調べているうちに、わずか1~2時間で、壇珠さんが書かれているのとほぼ同じルートを 辿って、BTSの何がすごいかがだいぶわかってきた。

 

一番私が惹かれたのは、BTSの音楽観。壇珠さんが書かれているように、愛溢れるメッセージを、型に縛られずに自由に表現している感じ。それは妥協のない追及された表現で、そのなりきり度がすごい。いや、なりきるんじゃなくて、もうそのものという感じ。歌もダンスもすべて、表現したいものと表現されているものの一致感がすごい。要するにレベルが高い。特にダンスのひとつひとつの動きのしなやかさといい、躍動感といい、無駄がないというか、無理がないというか、「わあ~本物!」という感じ。観始めるとくぎ付けになってしまう。

 

うふふ・・・そして、いきなり私は可笑しくなってしまう。

・・・というのは、実はこれによく似た話が身近にあるのだ。

 

10年ほど前に、私は日本を代表するアイドルグループARASHIにハマった。

これも友人の紹介だったのだけど、私も最初はあまり興味なくて、「アイドルかあ~こういうチャラチャラしたのはさすがにダメそうだ~」って思ってたんだけど、いつのまにかハマってしまった。

その友だちは「家で嵐会やるから来ない?」と誘ってくれて、行くと踊りながら出てきて、「いっしょに踊ろう!」とか言われて、最初は戸惑ったりもしたけど、ついつい巻き込まれていった。

TV放送の名場面集をDVDに撮ってくれたりもして、

「ここ!ここ!くう~(●>ω<●)いいでしょ?!」とか、何度も巻き戻しては、ピンポイントでその魅力を語ってくれた。

そして、海外ツアーにまで行ってきて、買って来た嵐グッズを並べて、嵐の5人の仲の良さや、ファンをとても大事にしてくれるところや、ファン同士のつながりがまたいいことや、いろんな話をしてくれた。嵐のファンになって本当に幸せだと、ときに涙ぐんだり、感動したりしながら・・・。

彼女と初めて行ったコンサートは、10周年のとき札幌ドームで、初めは「札幌?」「遠い!」「お金かかりそう!」「わたしには無理だ~」とか思ったのだけど、彼女の計らいで思ったよりずっとお得な旅が実現できた。

ツアー行きが決まってからは、コンサートのDVDを観ながら、うちわを作ったり、歌やダンスを練習したり。どこで何食べる?とか、グッズは何を買う?とか・・・そんな準備期間も楽しかったな~!

そして、両家とも、嵐の話題で盛り上がって、家族には半分呆れられながらも、半分はいっしょに巻き込んで楽しんでいた。(と思う。)

 

まあ、私には壇珠さんほどのミッションはなかったのだけど、その友だちの姿やまわりへの影響力は、壇珠さんに近いものがあった。

 

というわけで、今日は男の愛の深さについてであった。つまらぬわたくし事ですみません。でも、奇跡って起こるものだ。。男性の懐の深さにはいつも頭が下がる。
そして大事なのは、誰にわかってもらえなくても、まずは自分が楽しむこと。それが伝わっても伝わらなくても、とにかく自分の楽しいものを楽しもう。そこで共振できたら、それはとてもラッキーなこと。そう思っていれば、ミッションはいつも、楽しいね!

 

とにかく自分の楽しいものを楽しむっていいな。そこに集中すればいいんだから。

もうあとは本当にただついてくるもので、例えなんにもついてこなくても、楽しいものを楽しむんだから、もうそれだけでもすでに楽しいんだし、楽しいことの追及だったらずーっと続けられる。

そして、楽しいものを楽しみ続けるうちに、いつか奇跡が起こっちゃったらすごい!

 

 

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「うまくいくかいかないか?!」より「やるかやらないか?!」

ときどきわたしは幸せなの?それとも不幸なの?どっちなの?とかいう疑問が湧いてくる。なぜなら、出会うこと、考えることで、幸せ気分になったかと思うと、ドーンと暗い気分に落ち込んだりと、一瞬一瞬で気分が変わるからだ。そんな自分に、もうどうでもいいわい!勝手にしてくれ!と呆れてしまうくらい。そういえば「さっき泣いたカラスがもう笑った!」って子どもの頃もよく言われたな。まあ、こういう人をおめでたい人というのかもしれない。

 

ところで気分を暗くするモヤモヤは、毎日の生活の中で必ずといっていいほどやってくる。この、隙あらばやってくるモヤモヤは常々排除していかないと、モヤモヤだらけになってしまうくらい。一匹見つけたら10匹いると思って駆除しないとどんどん増えるゴキブリみたいに・・・。

 

そのモヤモヤの原因はいろいろある。過ぎたことをくよくよ考えたり、なんとなく体調が悪かったり・・・でも考えてみると私の場合、そのほとんどが、起こるかわからない先のことをあれこれ想像して不安になるというやつだ。

 

この毎日のモヤモヤ退治に、ゴキブリホイホイやゴキブリジェットに匹敵するくらい強力な「モヤモヤ・バスター」の情報が届いた!

 

note.mu

あのときのことを思い出してみて一番教訓になったと思うのは、モヤモヤしていることがあったら、何より先にしなくてはならないのは、そのモヤモヤを排除すること。それだけをすればいいということだ。名付けてモヤモヤ・バスターである。

起こるかどうかわからない先のことを、あれこれ考えても仕方がない。そのために今をモヤモヤしたまま過ごしていてはいけないということ。失敗の可能性が含まれているとしても、モヤったまま暮らすくらいなら、行動に出たほうがいい。

もし、やめておくことによってモヤモヤが解消するのなら、行動に出ないという判断だって有効だ。けれどわたしのケースのように、手術をしないことで、もしかしたら悪性になるという可能性を持ち続けるとなると、行動しないことによってモヤモヤがずっと続いてしまう。それならば、動いてみるほうがいいのではないだろうか。

 

私はまだ、こういう大きな病気や手術を経験したことはないのだけど、何か不調があるたびに、「もしや・・・?」という不安に襲われる。そして一番モヤモヤするのは、「病院に行こう」と決心するまでの間と、検査をして結果を聞くときの待ち時間だ。その間に余計なことをいろいろ考えすぎて、モヤモヤがどんどん広がる。

そうか。この待っている時間にずっとモヤモヤが続くのなら、行動は少しでも早く起こした方がいいんだな。あ~こんな簡単なことに今まで気づかなかったなんて。いや、どこかでわかってはいるんだけど、怖いことって先延ばしにしちゃいがちなんだな。 

 

挑戦してみたいことがある人にも、同じことが言えると思う。
今これをやってしまったら、もしかしたらもっと傷つくかも知れない・・最悪、自尊心はズタズタになる。そう思えることだとしても、挑戦しないでいる間中ず~っとどこかがモヤモヤしたままなのだとしたら、もったいない話だ。モヤモヤしたまま過ごしても惜しくないといえるほど、人生はどうでもいいものではないと思うのだ。

 

自分をモヤモヤさせているものを、ひとつひとつ取り除いていく。これがモヤモヤ・バスターの任務である。
これをやってみたいが、やれずにモヤモヤしている、これをやめてみたいが、やめられずにモヤモヤしている・・・そういうものがあるのなら、「モヤモヤ排除」を最優先にしてみようではないか!
それは取り掛かってみると、きっとまるで冒険のようなものだと思う・・!

 

なにかをするのに成功させなくてはならないとか、失敗してはならないとかいうふうに考えるとものすごく負担だ。。。。でも、成功・失敗よりもなによりも、まずその『モヤモヤを排除すること』を目的にしてみるととても行動しやすくなる。挑戦しさえすれば取れるモヤモヤなら、挑戦しただけですでに大成功だもの。

 

ホントだ!やってみたいことができずにモヤモヤするのも、結果にこだわるからだな。最近はもう、モヤモヤし出すと、最悪の事態を想像して、それを一回笑い飛ばす。ということをしてみる。

例えばステージに立って、歌を歌おうとして声を出したら、ゴジラみたいな声になっちゃって、やばいやばいと思って踊ってごまかそうとしたら、ズボンがビリっと破れちゃった・・・とか・・・。

もう、ありえないくらいの最悪の想像をする。そして、「いやいや・・・そんなことある?」って自分の想像が可笑しすぎて、ちょっと気が楽になったりする。

 

うまくいくかいかないかより、やるかやらないかなんだな!

 

昨日はツイッターから流れてきた『涙ポロポロ』という坂爪さんの歌を聴いて、いっしょに歌って踊っているうちに、モヤモヤがスーッと消えて、「ようし!なんでも来い!どうにでもなれ!」みたいな気分になれた。

 

♪涙ポロポロ 涙ポロポロ 胸を張って歩くのさ♪

♪涙ポロポロ 涙ポロポロ 前を向いて歩くのさ♪

 

このシンプルな歌詞を繰り返すうちに、

「もううまくいこうがいくまいが、わたしにはこれしかできないのだ!」

「例え傷だらけでも、涙がポロポロこぼれちゃっても、前に進むしかないのだ!」って思って、勇気が湧いてきた。

 

 

そして、今日はこの記事を書いているうちに、また壇珠さんから素敵な記事が届いた。

note.mu

 

そうなのです!いつもとちょっと違う服を着てみたり、アクセサリーをつけてみたりするだけでも気分が晴れてモヤモヤがどこかへいっちゃったりすることもあるね!

 

 

自力でモヤモヤを退治できなくても、この世には一瞬にして気分を変えてくれる魔法の言葉や魔法の音楽や魔法の〇〇がたくさんあるんだな。

 

それを知っているだけでも、心強い!

 

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ピンとくる瞬間は何かのお告げ

最近息子に紹介された「中田敦彦YouTube大学」という動画にハマっている。世界史をとても面白くわかりやすく解説してくれる動画だ。

私は歴史とか地理ににはとても疎くて、「コロンブスってもしかして男だったの?」とか、「オーストラリアとオーストリアどっちがどっちだっけ?」とか、そんなレベルなんだけど、そんな私でもハマってしまうって、人生わからない。

とにかく惹かれるものには惹かれてしまうんだな~。

 

note.mu

 

どういうことかと言うと、「なぜかハッキリとはわからないけど、なんか好き!」とか、「なぜかはわからないけれど、やってみたい!」などの感覚は、第六感が働いているのと同じだとわかったのだ。
他にも、怒られるだろうけどやりたい、軽蔑されるだろうけど興奮する、バカにされるだろうけど好き、というような感覚は、第六感のように正確にわたしたちになにかを伝えているものだと思っている。

 

だからこれは、好きなことをして「楽しもう」ということだけでなく、もう一歩それより深く、シリアスな意味があるのだとわたしは思っている。本当にわたしたちが触れたいもの、味わいたいこと、体験したいこと、魂に触れるなにかが、ピンときている状態なのだと思う。

 

壇珠さんのHIKAKINNさんに関する文章が、私の「好きなもの」にもピッタリ当てはまってしまうので、今日はそのまま文章お借りしました。m(__)m

 

わたしは、はじめて中田敦彦さんのYouTube大学を長男に紹介してもらった時、歴史わかんないんだよね~特に世界史って何が何だか??というくらいの反応しか持てなかった。でも、そのころからなぜかビンビンに「息子の言うことは聞いたほうがいい」という気がしていたわたしは、それに従って素直に息子の送ってくれた動画を見てみることに・・・

すると、それが思っても見なかったほど心躍るもので、すぐさま他になにも見えなくなるほど夢中になった。

 

これを見出したら、他の動画が次々見たくなって、とうとう「武勇伝」まで来てしまった。( *´艸`)

 

 

そういえば、話はまた変わるけど、こちらの壇珠さんのブログにたどり着く前に出会った、坂爪圭吾さんのブログを紹介してくれたのも息子だったな。これらは全然関係ないようでいて、全部つながっているような気がする。「好きなもの」「ピンとくるもの」ということで・・・

 

わたしは、はじめて坂爪さんのブログを長男に紹介してもらった時、ホームレスをしている人?働かないで生活している人?それで生きていけるの?どういうこと?くらいの反応しか持てなかった。でも、そのころからなぜかビンビンに「息子の言うことは聞いたほうがいい」という気がしていたわたしは、それに従って素直に息子の送ってくれたブログを読んでみることに・・・

坂爪さんは、わたしが考えたこともなかったほど、心根の良い人で、正直で、聖人と呼ばれるほど優しくて、なのに見たこともないほど強い人だった。坂爪さんの魅力を語れと言われたら、それこそずーーーっと語っていられるほどなのだけど、でもそれを理解する前に、どうして最初に読んだブログにあんなに胸を撃ち抜かれたのかは、わたしの顕在意識ではもちろんわかっていなかった。ただ、なぜか、どうしようもなく、いい!好き!と感じたのだ。人間の良心とか、愛とか、なにか根本的で純粋なものにつながったものだったからではないかな、と思っていた。

たしかにそうだと思う。でも、このことはわたしにとって、その後もっともっと大きな影響となったのである。

坂爪さんを好きになって、わたしは「自分を表現すること、それを他の人に見せること、思いを発信すること」への考え方が根本的に変わった。
誰かの真っ直ぐな姿を見るということが、自分にこんなにも大きな喜びをもたらすだなんて、坂爪さんを知るまで、考えたこともなかったことだった。自分のその変化の過程で起こった感動と喜びは、ここにとても書ききることができない。
そしてそれがあって、今の自分がいる。このブログも、これまでにしてきたことも、坂爪さんとの出会いがなかったら、あり得なかったことだ。

だからあのときの、たった一つの記事になぜか異様に惹かれたあの感覚は、まるでお告げのようだったと思うのだ。
それこそ、大変力のある霊能者に「いいですか、理由はわからなくても、この人の記事をできるだけたくさん読みなさい。それは、あなたの将来にとても良いことをもたらしますよ」と言われたのと同じだと思う。

人には、自分のことをそうやって良いところに導く霊感が自然と備わっているのだ。それが、なぜかいいと思う、なぜか好き、なぜかしびれる、どうしてか心が震える、という形でやってきているのだと思う。

だから、好きなことをしよう、というのは、最近手垢のついたような陳腐になりつつある言葉だけれど、これを新たに「自分の第六感が働いている」という観点で見てみるのも面白い。ないがしろにしてきてしまった「好き」の中に、人生の大きなヒントが眠っているだなんて、楽しいね!!

というわけで今日は、好き=第六感、という見方をしてみませんかというご提案であった。自分の中の霊能者の声、無視せずちゃんと拾ってみよう!

 

そう!そして、坂爪さんのブログを読んでいるうちに、その中で紹介されていた壇珠さんのブログに出会うことができた。なので更に、この「坂爪さん」を「壇珠さん」に置き換えることもできてしまう!

 

この第六感に従うようになって、私は毎日壇珠さんの記事を読むようになり、そこから「好き」がどんどん広がって、どんどん繋がってきているということになる。

 

「こんなことってある?」

「人間てすごいよね~!」

 

あ、これ、最初に戻って、動画の中のあっちゃんの口ぐせです!(*´艸`*)

 

 

「すごいよ~!あっちゃん!すごすぎるよ~!」

(byオリエンタルラジオ武勇伝)

 

 

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わたしも世界も宇宙も影響によってできている

昨日は車でちょっと遠出をした。

高速道路を運転しているとき、わたしはいつもガチガチに緊張する。

家に着くとクタクタにくたびれるほどに・・・

 

というのも、もし私がここでハンドル操作をあやまれば、一瞬にして人生が変わってしまうかもしれないと思ってしまうから。

 

例えば急に心臓発作が起こったら?

例えば急に前を走るトラックの荷台からシートが舞ってきてフロントガラスに張り付いたら?

例えば急に狸が飛び出して来たら?(いや、あり得るんですよ!)

 

一時間後は病院のベッドの上だったりして・・・(◎_◎;)

 

そして、近くを走っていた車を巻き込んで事故ってしまったら?

 

それがもしも憧れる有名人の車だったら、その人と一生お近づきになれるかも?

いや、その妄想はちょっと置いといて・・・

 

逆戻りして、家を出るとき「いってきま~す!あ、やっぱりちょっとトイレ・・・」とか言って、一旦戻ったために、事故に巻き込まれずにすむってことだってあるかもしれない。

 

結局どんなに気をつけたって、どんなに考えたって、自分ですべて決めることなんてできないんだから、もう、運を天に任せるしかない。

 

でも、わたしたちの一挙手一投足が、思いがけずいろんなところに影響を及ぼしているってちょっと怖い。

 

note.mu

 

つまり、わたしがいることで起こる世界というのは、わたしがいなければ消滅してしまう。

 

わたしたちの個々の選択は、個々の宇宙のすべてに影響する。わたしたちの持つ影響力というのは全宇宙に波及するものということになる。
わたしたちが何もしていないとしても、ただそこにいるだけで、息をしているだけで、全宇宙に影響があるということだ。

 

 「波及」という文字通り、影響は私たちが起こしている波みたいなものなんだな。

小さな小石を池にポトンと落としたら、そのまわりに次第に波が広がっていくように、人々が起こす波はときに合わさったり、ときにぶつかり合ったりして、更に更にいろんな思いがけないところにまで広がって、知らないところで知らない人にまで影響していたりする。

 

わたしたちが関わる相手、そのすべての人がわたしたちの影響を受けている。その会話、その時間、その記憶、そのときの発想、その時の思い・・・それらの経験から生み出される次の経験や、思いもすべて変わる。そして、それがその人に関わる人々にも同じように影響する。その人々に関わるすべての人にも、そして、そのすべての関わる人に関わる人も・・・
どこまでも、どこまでも。

 

「影響」という言葉を調べてみたら・・・?

『一方の作用や働きが、結果として他方に変化や反応を起こさせること。その変化や反応。』とある。

 

ここで、自分が今までに受けた影響について考えてみた。

そしたら・・・?すべてが影響じゃないの?わたしのすべては影響によってできている!って思った!

 

そもそも生まれてきたのだって、

「はい!そろそろ生まれますよ~!」なんて自分で決めて、勝手に生まれたわけではない。両親をはじめ様々な作用や働きの結果、起こった反応として生まれてきた。

 

今あるこの身体や性格や心の状態だって、

「背は高めで、髪は多めで、手は大きめで、性格はおっとりめで・・・」とか自分で選んで決めたわけじゃない。遺伝子や食べたものや育った環境や出会ってきたものによって、受けた様々な影響の結果だ。

 

・・・ということは、「わたし」という人間は、影響でできているんだな。影響でできた人と人が、更に影響し合って生きているのがこの世界なんだな。そして、その影響は人間だけでなくて、この宇宙のすべてに無限に及んでいる。

 

すごい!・・・ということは、この世界も宇宙も、すべてが影響によるもの。それぞれが起こす働きによって、常に変化と反応を繰り返しながら、揺ら揺らみんなで揺れている。

 

なんだか不思議。世界全体が影響の波の中で揺ら揺らと浮かんでいるみたい。心地よく揺れたり大波に呑み込まれたりしながら・・・。

自分がどこで誰にどんな影響を及ぼすのかなんて、とても把握できることではないけれど、できることならばいい波動を起こしたい。

みんなが気持ちよ~く揺ら揺らできる波動にいっしょに乗って、その波を更に遠くにまで届けられるように、揺ら揺らしたい。

 

 

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夢や目標に縛られず・・・

先日、小学校と中学校の先生たちが集まって、義務教育9年間を見通して、系統立てて計画的に力をつけていきましょう。みたいな話し合いがあった。確かに積み重ねでだんだんついていく力もあるかもしれないのだけど・・・私の考えていたことといったら・・・?

 

例えば、新卒のとき出会った中学3年生は、9年間音楽教育を受けてきた結果、みんな音楽が嫌いになっていて、最後の1年間で、どんな授業をしたら、音楽が楽しくなるかばかり考えていた。

 

それから、低学年で、すばらしい成長をとげた子どもたちが、クラスが変わったり、担任の先生が代わったとたん、グダグダになって、すべてリセット!一からやり直し!みたいなこともよくあった。

 

逆に、大荒れに荒れて荒んでしまった子どもたちが、環境が変わったとたん、魔法がかかったように、素直でなんでも一生懸命やる子に一瞬にして変身してしまった!なんてこともある。

 

そのときの状況によって、人は豹変することがあるのだ。

 

自分だってそう。

今まで熱中してきたことなのに、ある日突然熱が冷めることもある。

 

怒らせると面倒な人には怒らせないように気を遣うけど、気楽な人の前ではすっかり力がぬけていることもある。

 

自分を丸ごと受け入れてくれる人には素直に心を開けるけど、苦手な人の前だと自分を頑なに閉ざしてしまうこともある。

 

きっとまるで別人のように、その時々でいろんな自分に豹変している。

 

note.mu

 

わたしはこれまでもそうで、いつかこういう人になってやる、と思ってそれに向かって長期的に計画を立て、そのとおりに動いてそれを達成した、ということがなかった。いつも、行き当たりばったりで何かがしたくなったり、なりゆきで、なんとなく、出会ったものと交流してやっているうちにまた次の流れがきて・・・と、目の前のことに飛びついているうちに今にたどり着いていた、というような感じがする。

 

世間では夢や目標がないというのはあまり褒められることではないけれど、わたしは目標や夢などのない人は、それらへの執着に縛られることのない、とても身軽な状態だと考えてみてもいいと思う。

 

目標って立てたとたんに縛られちゃうもんな~。達成されなかったらどうしよう?とか、目標に近づけば近づくほど、あと少し!絶対達成する!っていう執着が強くなりすぎて、他の大事なことを見落としてしまったりすることだってある。

 

かと思えば、途中でだんだんどうでもよくなって、でもいったん決めた目標だからと無理して達成しようとしたりということもある。

 

夢や目標はもつべき!とか、夢や目標はもたないべき!とか、そんな目標ももたず、ようするにそういうことを固定せず、縛られず、もちたければもてばいいし、無理してもたなくたっていいのだな。

 

自分に起こってくることを受け入れて大事に扱うことは、ご縁を大切にするということなのではないかな。夢や目標があると、よほど人間ができていないかぎり、ついついそれらにプラスになると思えることばかりを大切にしてしまうし、そうじゃないものをないがしろにしてしまいがち。。でも、ほんとうはニュートラルに見れば、すべての出来事にご縁があるのだと思う。

 

あ~、あるな~!スポーツとかで、大会優勝を目標にチームプレーをして、あと一息ってところで誰かがミスをして負けちゃったら、そのミスをした人をめちゃくちゃ責めてボコボコにしちゃうとか。

目標達成よりも大切なことってある。大会もそれに気づくためのご縁になればいいものな。

 

わたしはそんな感覚であまり先のことを考えずに、洗濯中に桃が流れてきたら無視せずに、おやおやそれならば拾って開けてみましょう、という感じで目の前のことに一生懸命に動くうちに、よいご縁に恵まれてきたように思う。(とくに、怖い桃とかめんどくさい桃などの、ついついスルーしてしまいがちなのが目の前に流れてきたときには、偏見を捨ててそれを拾ってみよう!意外と中はお宝かもしれません。フフ・・)

 

そうか、目くじら立てて洗濯に夢中になって、桃が流れてきても、

「じゃまじゃま!今洗濯中なんだから!」なんて言って邪険にせずに、

「おうおう、珍しい桃が流れてきたぞ~」って言って、洗濯してたのも忘れて桃拾いに夢中になっちゃう・・・とか楽しそう!

 

それで、「おじいさ~ん!桃拾ったよ~!」って家に持ち帰ったら、おじいさんが「わしのパンツはどうなった?」って言い出して、「やばっ!洗いかけのおじいさんのパンツ川に流しちゃったかも・・・」ってまた川に戻って、洗いかけの洗濯物探してたら、また桃が流れてきて、「あ?また桃が流れてきた~!今度はちょっとめんどくさそうな桃!」ってまた桃拾いに夢中になっちゃって・・・って楽しすぎる!

 

桃の中にはどんなお宝が隠れているのかな?さあ、拾って開けてみよう!

 

 

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