真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

自分の人生ドラマを眺めて楽しむ

 

壇珠さんは、こちらの記事に載せられるDavid James Gandyさまの写真探しに1時間半かかってしまったというのだけど・・・

 

私はこちらの記事で紹介されていたジャズの名曲♪枯葉♪を聴いた後、名盤聴き比べに没頭して、そこで1時間ほど止まってしまった。

すごい人たちが様々なアレンジで歌っている~♫

 

これ改めて名曲ですね~!

 

今宵名曲♪枯葉♪に聴き入り、人生の秋にしみじみと感じ入る大人の私・・・

 

新緑の季節だというのに・・・???

 

note.mu

 

わたしたちの人生の舞台は、何もかもが永遠ではない三次元で、出会ったものすべてと別れなくてはならない哀れな世界で、時間にすらリミットのある苦の人生で、さらには欲に翻弄されるという、韓流ドラマも顔負けの切ない設定だ。それをしかも、3Dリアルの肉体に入って究極の臨場感とともに味わうという・・・その設定でリアルにあくせく一喜一憂しながら、わたしたちはそのドラマを『眺めて楽しむ』ことができる。

 

私の人生は秋なのか?

でも、なぜか春や夏に戻りたいとは思わないな。

 

欲に翻弄されて苦しんでいた若い頃を思うと、「ご苦労様でした。」みたいな感覚だし、かといって、「もうあんな欲はないなあ~」なんて、まさに枯葉のように散っていく身の寂しい気持ち・・・というわけでもない。

 

『眺めて楽しむ』これだ!

これは余裕なのかな?昔は苦しい時はひたすら苦しくて、もっともっと悲観的で、

「どうしてわたしはこう、ついてないの?」

「どうしてこんな目に遭わなきゃならないのォ~~~?ウッウッウッ・・・」っていう感じで、そんな楽しむだなんていう余裕は全くなかった気がする。

 

本当の安楽とは、そのドラマを眺められるもうひとつの視点を知っていることだと思う。欲を追い、手に入れて歓喜し、別れに泣き・・・肉体を持って生きるその超臨場感型のアトラクションを、いっぱいいっぱいに味わいながら同時にそれを鑑賞していればいい。ちょうど、テレビドラマを見ているときのように。ドラマに泣いて笑って、本当のこととして目一杯楽しめばいい。ドラマだと知っているところから、究極にはそれすらも忘れて、心いっぱいに・・・

 

そうだな。そうそう!喜んだり悲しんだり怒ったり泣いたり・・・思い切りしながらも、もう一方ではそれを楽しんでいる自分がいるという楽しみ。

ときどき楽しむことを忘れて目くじら立て始めることもあるけど、そのドラマを眺められるもうひとつの視点を知ってさえいれば、「ああ、そうだったそうだった!これはドラマだった。つい忘れてムキになってしまった・・・」と思い出して、泣いたり怒ったりムキになったりしている自分を、どこかで笑って楽しんで眺めることができる。

 

映画を最も楽しむ人は、きっとそれが映画だということを忘れて没頭する人だ。でも、映画だと気づいていることがそれをフルに楽しむ条件でもある。ゾンビ映画を見ていて、もしそれが映画だと気がついていなかったとしたら、それはそれは恐ろしいことだろう。けれども、どうせ映画だからね、と覚めきってしまっていてはひどく退屈である。一番は、映画だと知っていてその安心感の中にあって、それをすっかり忘れて思い切りその中に入り込むことだ。ゾンビが現れれば叫び、助かれば安堵し、震えて泣いて笑う。

 

そう、映画だと気づいていれば、この世の終わりのような、もう不安で不安でしかたないような悲壮感からは逃れられる。

かといって、「どうせ映画なんだからさあ~」と悟りきったような、冷めきったような感じでもなくて、思い切り怖がったり叫んだりを楽しめる。

 

もちろん、人生に充分に没頭できるなら不要だけれど、人生をもしフルに楽しみたければ、これがドラマだと気がついている視点をもつこと。そして、そんな覚醒は忘れて捨てて、人生に没頭することなのだと思う。欲の幸福と悲しみ、そのジレンマはそのとき、人生ドラマの完璧で最高のスパイスである。わたしたちはそのおかげで、一生退屈しない。

 

それにはやっぱり、何事もなく、無事に終われるように、無難に無難に毎日を過ごしているだけじゃあちょっと物足りない。

 

思い切り欲をかいて、いろいろやらかして、「やったあ~!」とか、「ガ~~~~ン!!」とかなったりしても、一生没頭して、一生楽しんで、最後は「あ~面白かった!」ってなれたらな!

 

 

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