真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

一瞬一瞬を新しく!

今朝読んだ坂爪さんの記事に、「決めつけられること、押しつけられること、が好きな人なんて誰もいない」っていう言葉があった。

そう言われれば当たり前すぎて、誰でも頷けることなんだけど、でも、知らず知らず日々決めつけ合い、押しつけ合っている私たち。

「あ、決めつけられた!」「あ、押しつけられた!」「あ、決めつけちゃった!」「あ、押しつけちゃった!」って気づければまだいいけど、たぶん気づかずやっちゃってるんだろうな。

 

そして、こんなことも書かれていた。「罠にはまると人生詰まる。」と。

逆に言えば、「人生詰まっているときは、単に罠にはまっているだけ。」なんだと。

その罠は自覚さえすれば抜け出せるんだと。

 

ものすごく頷いてしまった。

人生罠が多すぎる!でも全然気づかずにハマりまくってしまうこともある。いかにも罠だってわかる罠もあるけど、あまりにも巧妙な罠もある。その見抜き方がわからなくて、ずっと罠にハマったまま身動きできなくなることもある。(罠をかける方も罠をかけている自覚はないのかもしれないけど)

でも、この記事を読んだらあまりにあっさりと、あまりに本質をついていて、「あらま!」と思ってしまった。・・・つまりは、「なんか身動きとれないな。」っていう違和感を感じるときは、すでに罠に足をとられているんだな。そして、「あ~こりゃ罠だな。」って気づいた瞬間にスルッとその罠から抜け出せるというわけだ!

 

なんて単純でわかりやすいんだろう?!

逆に、私はいつも、なんて難しく考えすぎているんだろう?!

 

それに合わせてこちらの記事です!↓

note.mu

 

自分が死ぬときに、ああ我が人生よ・・!と思う気がしてならない。わたしは今も、そう思う。死ぬときのような気持ちでそう思う。なんでもない瞬間が、なんと愛しかったかと思う。

 

そうすると、当たり前が消え去って、一瞬一瞬が貴重なんだな、と思う。
すると、一瞬一瞬にさようならしているんだな、今もどんどんこの自分が死んで新しい自分になって即死んで即生まれてんだな、今も常に即死即生をしているじゃないか、と思えて、初めて死を受け入れるような感覚が感じられる。生きたいんすよ、ぬわああああーー!!が高まりまくると、今も死んでいると思う。瞬間の自分がぜんぶ違うやんけ!と思うと、ずっとそれを見ていた不変の自分がみつかる。

 

だから、他の人のことも、うまくは言えないが「生きている存在ですね、ピュアな感覚なんですね!!」と思う。自分が真に生きるとき、他者を本当にリスペクトできるのかな、と思う・・・・お互い、愛しき存在だ。。。
涙がちょちょ切れるぜ。。

 

もう、すごいです!

決めつけるとか、押しつけるとか、そんなこととは無縁で、なんと無垢で純真な・・・と感動してしまう。

 

決めつけたとしても、押しつけたとしても、落ち込んだり、悩んだり、イライラしたり、怒りが爆発したり、どんな恥ずかしくダサい瞬間があったとしても、次の瞬間、もう生まれ変わることができるんだな。その気にさえなれば・・・

一瞬でさよならして、次の自分に生まれ変わることができるんだな。

 

他人だって、さっきまで嫌な奴だったとしたって、今も嫌な奴とは限らない。決めつけるのをやめれば、また新たな関係が築けるかもしれない。まあ、「かも」だけど。

 

そして、どんな罠にかかったとしても、そこで、もがいてがんじがらめになったとしても、「あ~、こりゃ罠だわ!」って気づきさえすれば一瞬で抜け出せる。

 

ぐちゃぐちゃ言ってないで、この新鮮な世界に一時一時生まれ変わって、真に生きられたら、他者を本当にリスペクトできるだなんて、なんと素敵なことだろう?

そんな風にお互いに尊重し合って、一瞬一瞬を新しく生きていったら、この世界はもうすでに輝かしいところですね。

そりゃあ、涙ちょちょ切れるな。嬉しすぎて(≧◇≦)

 

死ぬその瞬間までこの感動を続けていけたら、

「ああ我が人生よ・・・!」って思って死ねるだろうな。

 

 

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