人生の終わりの最も満たされた姿
テレビを観ていたら、『終わり』というタイトルの、枯れたひまわりの絵が出てきた。それは、黒い種をいっぱい宿したまま、ガクっとうなだれていた。そこに流れてきた言葉を聞いて、「これ、壇珠(ミユ)さんの言ってたことと似てるな。」って思った。
「大地をみつめる顔は敗北ではなく、その痩せた姿にも、解脱の風格があった。その顔一杯の種は、次の命を宿し、充実していた。」
二月に100歳で亡くなられた、日本画家、堀文子さんの追悼番組。
続けて『冬枯れの萩の姿』というタイトルの絵が画面に映り、
「自宅の庭の枯れた萩の枝に命の痕跡をみつめた作品」と紹介された。
しばらく見入ってしまった。
こんなことを書いたら、ヤバい人だと思われてしまいそうだけれど、死体は、わたしにとってどうにも、気持ちの悪いものには見えなかった。
さらにさらに、この単語を使うともっとヤバい人に見えそうだけれど、死体には共通してある種の「美しさ」があった。わたしはひとつひとつの写真を見ながら、人体について思いを巡らせたり、もう仏様になって天国にいるその人のことを思った。
もちろん死んでいる身体からはもう生気は抜けているのだけれど、でもわたしはそこに、どういうわけかリスペクトを感じた。それはその生命がこの世に生まれ出て生きていた証であり、生命を終えるまでの間、魂に寄り添っていた完璧なシステムがその活動を卒業した姿だった。
ね?これってすごい気づきじゃないですか?!
死に顔にあるのは、まさに命の痕跡なんだな。敗北ではなくて解脱の風格で、きっと生き切ったあとの、最も充実したものなんだな。それを感じたからこそ、ミユさんはリスペクトを感じたんだな。きっと・・・
「身体よ、身体よ、人間の身体よ、生きていたね、今は止まったんだね、すごいね、かわいいね、素晴らしかったね、えらかったね・・!!」という気持ちがあふれてきて、涙が出てきた。
動いていた。送っていた。流れていた。結びつき、受け渡し、運んで、創り、分泌し、受信し、生きていた。燃えていた。
悲しいのとも違う、可哀想だというのとも違う、人間愛とも違う、動物愛とも違う、とても言葉にできない感覚だ。
そして、ミユさんは、死体を見ることを通して、最後はこんな感覚に至ってしまう。
人はみんな、そんな「身体」という無垢な乗り物を持っていることに気づいているという感覚が、あれ以来わたしに加わった。いや、加わったのではない。身体への愛を曇らせていたなにかが剥がれて、顕になったのだと思う。
番組の中で、堀文子さんがこんなことも話していた。
「 自然は誰の力も借りずに自力で生きている。自分の出番を間違えずにちゃんと咲く。」
ちゃんと咲いたからこそ、出番が終わると潔く散っていくんだな。人間だって本当はきっとそうなんじゃないかな?
死は決して醜いものでも、おぞましいものでもないのだとわたしは思っている。とても切なくて、愛にあふれているのだと。それを死体が教えてくれた。
死体からこんなことを教わる人がいるだなんて、初めて知った!
またまた新しい発見だったな。
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