「わからない」が響き合って大きな「和」になる
新年度が始まり、バタバタしているうちに、新しい元号が決まり、ミユさんは「壇珠」というお名前に改名され・・・と、世の中では素敵なことがたくさん起こっていた!(≧◇≦)
私は焦っています!
きのう一日であった出来事や、感動したこと、感激したこと、考えたこと、たくさんありすぎて、それを早く旬なうちに表現したい!早くしないと、また次々と素敵なことがやってきてしまう!
落ち着け!いったん落ち着くんだ!
そうだ!まずこの記事をじっくり味わおうとしていたんだった。
うちら、宇宙空間の中で、身体という不思議で緻密で無垢な乗り物を持って生きて、限られたこの短い時間、宇宙船地球号のあいのりをしているんだね。言葉じゃ互いに伝わらなくても、ぜんぜんいいよ。なにより、ひとりじゃなくてよかった。
みんな、人間生活はいかがですか。わたしは喜怒哀楽にもまれながら面白がってます。ああ、同じ時代を共にする、地球号の乗組員たちよ・・!!この珍体験を自由に駆け抜けようぜ!!で、あの世でそれぞれの体験をもとに商売でもしよう。(笑)みんな、ひとりひとり違う経験をするのだもの!
そして、続いて冒頭の記事がまた新年度スタートにふさわしく素晴らしいもの・・・
個人的には、例えば大正からは正しさを大切にしましょうというイメージ、昭和からは昇っていこうというイメージ、平成からは平和を目指しましょうというメッセージ性を持ったイメージをそれぞれに持っていたけれど、令和には「令ーゼロ」の字から仕切り直しのような区切りを感じた。とても素晴らしい元号だと思う。みなさまはいかがだっただろう!
「令和」という元号に込められた願いを受けて、私はもう嬉しくて嬉しくて今もそれを思うと涙が出る。
いよいよここまで来たんだな~!って、ここまで本当によく頑張って来たな~って。
「昔は・・・昔は・・・」と言う親世代に、「そんなのわからないよ。」「私たちにはそんな考え通用しないよ!」とか、抱いていた不満も、一瞬スーッと解消される。
封建社会も、戦争も、貧困問題も、高度経済成長も、女性の社会進出も、高齢化社会も、その他様々な社会問題も、どれもこれも一方から見れば批判の対象でもあり、一方から見れば、その流れの中では自然なことでもあり、それをああでもないこうでもないと言い合いながら、乗り越えようとして、それぞれの時代をそれぞれの立場で生きて、ここまで繋いでこられた先人たちに、感謝の気持ちでいっぱいになる。
何かがリセットされる感覚。不思議だな。
わたしはわからないということがとても大切だと思っている。自分のこと、他者のこと、未来、過去についても、わからないと思うことが好きだ。
これは、いつでも誰にでも思い出すことのできる、とっても手軽なのに奥深いワークのようなものだ。思考を手放そうとしても袋小路に入ってしまって難しい(手放そう、という考え自体が思考なので、それが強まると、思考そのものが活性化してちっとも進まない)ときなどにも、とてもやりやすいもの。
ただ、わからないものを見つけていくだけの手軽さだ。
サンチーも言っていた。
「人の気持ちなんぞ理解できなくて当然だ!理解し合えると思うことこそ傲慢である!」と・・・
「この人全っ然わかってないな~」なんて、カリカリしてきたとき、待てよ?ひょっとしたら、この人って、「一番わかってないのはおまえだよ!」って私に伝えるためにいるのかな?なんて思ったりする。
この世は何年生きても「わからない」ことだらけだという感覚は、喜びでもあり、楽しみでもある。
「わからない」に帰ることは、いつも私を救ってくれる。「わかっているはず」の前提をひっくり返してくれる。「わからない」を楽しませてくれたり、「今なんかちょっとわかった気がする!」という感覚で喜ばせてくれたりする。
もしかしたら、自分のことを少しも固定できないことを知ったまま、だからこそ目の前の相手のことを「あなたのことをなにもわかりません」と気づいたままで接することが、本当に礼をもって接することなのかも知れない。
あなたは未知の塊だね!あなたにこれから起こすことを、自由に創れるんだね!あなたにはあらゆるポテンシャルがあるんだね!
そういう感覚とともに接することが。
目の前の人に対し、「あなたにはわたしのことはわかりません」と気づいたままで接することは、自分を本当に大切にすることなのかも知れない。
わかってくれないのか!と怒ることもなく、わからせよう、変えようとすることもなく、自分のポテンシャルに自分でワクワクと気がついたままで接することが。
そこにこそ「礼」があるんですね?
互いにわからず、未来もわからず、その中で本当に通わせられるものに手を伸ばし合いながら、毎瞬を創り出しながらともにある。
同じ時を生きるって、すごいご縁だね!!
この、わからないままに、本当に通わせられるものに手を伸ばし合いながら、ともに生きるっていうのが本当にいいな。これこそまさに「令和」ですね?
「もしも今ここに聖徳太子がいたら・・・」から、引用します。
聖徳太子はきっとこんなことを言いたかったんじゃないかな?と私なりの解釈を書いてみたものです。
(十七条の憲法 第一条より)
すべての人が対等に。賢い人も、愚かな人も、強い人も、弱い人も、貧しい人も、豊かな人も、偉い人も、下々の人も、年寄りも、子どもも、その違いはあっても、人としてのその人らしさをもって、その奥にある、うそいつわりのないまごころを信じ合って対する。それが和です。自分だけに真実があるのではない。憎らしい人にも、下らない人にも、いやな人にも、ダメな人にも真実がある。それを全部合わせたらどうなると思いますか?自分ひとりで見ているちっぽけな真実よりも、ずっとずっと広く大きな、思いもよらない真理の世界が浮かび上がってくるんですよ。否定し合っていてはこんな展開は味わえません。真理から遠ざかるばかり。みんなで力を合わせることによって、物事の真実はより立体的に、より豊かになる。どんな人もそれぞれの個性とまごころを認め合い、それぞれの見方を、それぞれの思いを、打ち明け合って、ひとりでは見つけられるはずもない真理の世界に目覚めていく。この真理によって、みんながひとつになる。善人も悪人も、みんなのまごころが融け合ってひとつになる。これが和なんです。和というのはそれはそれはすごい力なんです。真実に、自然に、どこまでも従っていく。この和の力があれば、どんなことでも必ず成し遂げることができるのです。ここにだれもが真に生きる喜びを味わうことができるのです。すばらしいと思いませんか?そんな和の世界は!
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