枠をはずしてわくわく!
私は今朝、この記事を読んで、まさに目が覚めるようでしたよ!
壇珠(ミユ)さんすごい!どこまでも行くな~!
もう、いろんな枠をどんどん外して、自分の可能性を開いていく人を見ると、わくわくしちゃう!(≧◇≦)
ここ2年弱の間に、いろいろな枠を外してきた。
あがり症だからと制限していたこともやってみた。
三日坊主だからと制限していたこともやってみた。
わたしは次に、自分の最大の枠だった、性別由来の制限を超えたい。
性別が女だからと、ついつい盲目的に外していた選択肢の多さと方向付けに、改めて驚いている。今また新たに、自分で枠を外してそれらを選択肢に入れることができた。目が覚めるようだ。
それをやってもやらなくてもいいというところから、自分の意思で選ぶのなら気分がいい。でも、自動的・強制的にやってしまっているのなら、そこから目を覚まして、選び直したいと思う。
これ、とっても思い当たることがいっぱいある。
例えば料理。
わたしはもう何十年もずーっとずーっと我が家の食事担当係。
否応なしに、毎日やらなければならないこと。
それは決して料理が得意なわけではなくて、料理は女の人がやるもの。嫁がやるもの。お母さんがやるもの。というしきたりに従ってごくごくあたりまえのようにそうなっていた。
自分が育った家庭でも、それはあたりまえのようなしきたりで、母親が食事を担当してくれていたので、多少手伝うことはあっても、ほぼ毎日の料理は母親にまかせっきりだったから、今度は私の番というのも、あたりまえのように受け入れていた。
・・・で、ふと最近になって気がついたのだけど、私って料理が超苦手だ。
そして、好きでない。その証拠に、自分一人だったらわざわざ何かを作って食べようとは思わない。残り物でもなんでもいいし、一食くらい抜いても平気だ。普段も、手をかけておいしいものを作るというよりは、いかに簡単に短時間で済ませるかという策ばかり練っている。
それなのに思い返してみると、子育て中は、お母さんというものは、料理が好きで得意でないといけないと思っていた。「お母さんの作った〇〇が食べたい」とか、「買ったのより、お母さんが作った方がおいしい。」とか、たま~に言われる・・・ほんのたま~に言われるそのことばにのせられてがんばった。
お客さんのときや、一品持ち寄りパーティーなんかのときは、料理の本をあちこち広げて、練習したりして、料理の腕を認めてもらおうと必死だった。
・・・で、子どもたちも巣立っていき、たまに帰ってくると、普通はおふくろの味というのがあって、「お母さんが作った〇〇を食べたい。」という要望が出てくるものだと思うのだけど、うちはあまりそれがない。
自分でも得意料理というものが思いつかない。
久しぶりに帰ってきた息子に「何が食べたい?」と聞いたら、「卵かけご飯!」という返事が返ってきたときには唖然とした。
それは料理かい?別にお母さんでなくても自分で作れるやつでないかい?と思ってがっくりした。_| ̄|○
あ~、情けない。お母さんなのに料理が苦手だなんて!
でもそれを最近自覚したら、なんだか気が楽になってしまった。
そうだよ。何も料理が苦手なわたしが一人でがんばることないんだ。めんどくさかったらお惣菜買って来たっていいんだし、なんなら今日はお茶漬けね。とか、今日はカップラーメンね。だっていいんだ。お母さん、実は料理苦手なの。だから誰か代わりに作って~!って甘えたっていいわけだ。
でも不思議。そう思うと、「ううん、でもやっぱり今日も作ろう!」って前向きな気持ちになれるんだから。たとえ料理が下手でも、やっぱりたまに子どもたちが帰ってきたらおいしいものを食べさせてあげたいという気持ちはあるのだ。料理が下手なんて情けないお母さん!と思っても、「いいよ、いいよ、無理しなくて・・・」と誰かが言ってくれても、結局は自分で選んで、あれにしようかこれにしようかと、一生懸命考えて、子どもたちにおいしいもの食べさせたいと思っているんだ。一生懸命お母さんぶらなくても、もうすでにお母さんなのだ。
わたしはこれをここで社会のせいにするつもりはまったくない。社会のなにが悪くてこうなったのかを訴えるつもりもない。そんな暇があったら、わたしが自分でその制限を外せばいいだけだ。その面白さと喜びを書いて、その自分を見せればいいだけだと思う。
ここが大好き!
社会のせいにしなくていいのだ。
女が料理をするもんだなんてしきたりがあったから私はこんなに苦労した・・・みたいに。
そんなことしてもなんにも変わらない。
”そんな暇があったら、わたしが自分でその制限を外せばいいだけだ。”
ここんとこ、いいよね~!? 二重線引いて星印5つつけておきたい!(≧◇≦)
勝手にしようぜと思う・・・我ら、本当に好きにしていいのに、どうしてついつい制限してしまうのだろう。どうして自覚なく外からの基準を取り込んでしまうのだろう。どうしてそれで苦しみ、それで泣くのだろう。
わたしたちはこんなにも、自由の身だというのに。
「勝手にしよう」とか、「好きにしていい」とか、「自由だ」とか言うと、すぐに敏感に反応して、「いやいやいや、そういうもんじゃないでしょう?」とお説教を始める人がいる。
その人はいい気になっていると、いつもいつも囁いてくる。
「ほら、あれしなきゃ!これしなきゃ!」とか
「え~?今日のおかずこれだけ?さみしくない?もう一品くらい作りなよ!」とか
「お母さんなんだから、もっとお母さんらしくしなよ。」とか
「あんた、いくつになったの?いい年してそんなうかれてみっともない!」とか
「それじゃあ認めてもらえないわ。」とか
「あ~ほら、〇〇さんの機嫌損ねた。あんたのせいだからね~!」とか
わたしはそのたびに
「はいはい!」
「あ、はい!わかりました~!」
「え?あ~はいはいはいはい・・・すんません」
「はあ~~~~~」(o*。_。)o
って聞いているうちに、だんだんムカムカしてきて、
「っっっていうか、あんた誰?!」ってなる。
これはもしや、噂のインナーマザーというやつか?
でもそれは、必ずしも自分の中にいる自分のお母さんの声だけじゃない。
自分に期待を抱いているだろう全ての人の声を代弁してくる。その期待にちゃんと応えろと責めてくる。そしてわたしを縛り付けて苦しめる。
一体誰なの~~~?!こんなにわたしを苦しめるのは~?!
それは・・・それは・・・
全部自分でした~!
勝手に勘違いして、勝手に妄想している、とんちんかんな自分でした~!
いや、その妄想もときには図星のこともあるのだけど、それは誰かに乗っ取られた自分だ。
なにかを似合わないと言われようとも、無理だと言われようとも、制限なく好きにしよう。自分の枠を作るのも壊すのも常に自分だ。わたちたちは自由だね!!
結局自分を縛り付けるのも、自由にするのも、自分なんだね。
だったらもっともっと自分で自分の枠をはずしてわくわくしよう!(≧◇≦)
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