真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

自分が納得するように・・・

「やりたいようにすればいい。」とか、「好きに生きな。」と言われると、「なあんだ。なら楽ちんだ。」と言って、めんどくさいことはすべてやらずに、ただのらりくらりとぐうたら過ごしたり、好きなもの食べて、好きなテレビ見て過ごしたりしたとしても、それじゃあすぐに退屈して、すぐにつまらなくなる。と思う。

 

もっともっと自分にはとてもできそうにないけど、やってみたいことに挑戦したり、それに向かって夢中になって、がむしゃらになって、うまくいかなくて悔しくても、うまくいって嬉しくても、オイオイ泣けちゃうくらいに、これでもかっていうくらいに自分の力を出し切っているときが、本当に好きなことをやっているときなんだな。そんな自分は愛おしいなって思える。

 

わたしたちは、やりたいことをやる=楽をする、楽しいことしかしない、というふうに誤解しがちだ。だけれど、よーーーーく見つめてみると、自分が本当に望んでいることがわかる。わたしは、毎日投稿を三年間やり遂げた、その時の自分の感覚、感情、現実を知りたい。知ってみたくてウズウズする。一体どう感じるんだろう。やれたら確かに確かに嬉しいわ!と思う。投げ出したら後悔してしまう。だったら、つべこべ言い訳しないでそこに行こうとする。ザ・好きにする、とはこういうことだ。

 

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しかし・・・好きなことと言ってもいろいろあるのだ。

 

人の世に生きていると、大変なことがいっぱいある。
人間関係とか、経済のこととか、規則とか常識とか、恋愛や家庭や子育てやいろいろ、いろいろ。わたしにも、うまくいかないことがいっぱいある。

でも、本当に極端な表現ではなくて、そういういろいろがいっぱいあることと、幸福とは関係のないことだと思うのだ・・・・なんやかんやあるけれど、まあそんなグレーゾーンをいろいろ抱えたまま、一歩一歩、不器用にでも心をこめて選択して生きながらも、幸せでいられる。

 

この、「いろいろがいっぱいあることと、幸福とは関係のないことだ。」っていうところが好き! 

私たちは、こんなことがあるから幸せとか、こんな目にあったから不幸とか、すぐに〇✕で判断してしまうけど、本当は起こっていることそれ自体は、幸せの元でも、不幸の元でもないんだな。それどころか、むしろ本当の幸せは、一見不幸なことに思えるようなことを潜り抜けてやってくる。

だから、「一歩一歩不器用にでも心をこめて選択する」ことが大切なんですね。決して投げやりにせずに。

 

好きにする、ということには、そういうグレーゾーンを大事にすることも含まれているとわたしは思う・・・何でもぜんぶ白黒はっきりスパッとうまくいって、ズバッとホームランで、スカッと綺麗に身軽になれるようなことだけが好きにしているときの状態、ではないと思うのだ・・
グレーゾーンを自分なりに乗りこなすことも、「好きに生きる」のに大切な要素だと思う。

 

ここのところにめっちゃめちゃ共感してしまう。

私は、白黒はっきりしている人、好き嫌いでスパッと割り切れる人がとてもカッコイイと思う。自分の直観で決断して、決断したことにはうじうじ考えずに、前を向いてスタスタ歩いて行ける人が羨ましいと思う。

でも、私はそれが苦手。今までにもそんなふうにかっこよく割り切っていきたくて、何度も挑戦したけど、結局できなかった。そんな自分をいくじなしで、優柔不断で、情けないとずっと思っていた。

ところが、最近そんな自分を受け入れられるようになってきた。

「いいのいいの。今はこれで。」って・・・

 

「私は私の好きにする!」って言ってつっぱねても、

「それって本当に好きにしてるって言える?」

「いやいや言えない。だってちっともスッキリしていないんだもん。」

「じゃあ嫌な状態にずっと身を置いておくの?」

「いや、それもいやだ。」

「じゃあ、一体どうするの?」(※これ、いつもの自分と自分の会話)

ってなったとき、その中途半端な中で、ここまでは譲ろうとか、ここだけは譲れないとか、その都度自分の気持ちと相談しながらやっていく。そんな中でも、自分を喜ばせて満たしてあげる方法はいくらでもある。

結局は、さんざん考えて、いろいろやってみた結果、その中途半端なまんまでいながらも、あれこれ工夫して自分が納得できるようにしていくことを選んでいる。

 

答えもマニュアルもないと思うけれど、わたしはこういうとき、すぐに答えを出さなくてもいい、細切れに進んでいけばいい、少しずつ自分の思いを拾いながら丁寧に行けばいいと思っている。
できるだけでいいから、正直に、これ以上は譲れないという一線をちゃんと決めて、優しく、疑わず、傷ついたっていいぜという強さとともに進めたらなと思って、自分なりにそうしようと尽くす。
その結果離れたり、嫌われたりしても、心から『納得済みのスタンプ』が押せればいい。そんなふうにいつも思う・・・・
これも、「好きにする」のひとつだと思うのだ。

 

ああ、ほらほら、そのことをミユさんも言ってくれている。嬉しい!!!

誰にも理解されなくても自分にはこのやり方しかできないと思っていたけど、やっぱり今日のミユさんの記事を読んでいると嬉しくなる。通じ合える人っているんだなって。

 

納得を持って生きよう!!たまに、そのために、全力で耐えることや、地道に頑張ること、恐怖で震えることもあろう・・・荒波に揉まれることもあろう・・・悔しさで涙が出ることだってあろうことと思う・・・
でも、他でもない大事な自分の納得のためなら、いっちょがんばろう!
そういう積み重ねは、根拠のない、「ああ、幸せだ!」という気持ちとつながっている。

 

もうもう、本っ当にそうなんですよね!!!

自分を納得させるためには、全力で耐えたり、地道に頑張ったり、恐怖で震えたり、荒波に揉まれたり、悔しさで涙が出たりする。(みんなお見通しだな!)

でも、それによってとにかく自分が納得できればいい。

尊敬する人の本でも読んだことがある。「人は自分で納得すれば、なにをしてもよいのだ。」と・・・。

「なにをしてもよい」という言葉に引っかかる人もいると思うけど、結局はみんな本当はそうしているんじゃないのかな?他人がどう言おうと・・・。

 

『思い残し』というのは膨大なエネルギーを奪うから、それを『納得』に持っていくだけで力がみなぎってくる。
忘れ去っていた思い残しを手放したり取り戻すことや、今後思い残しになりそうなことをできるだけ後悔のないように丁寧に扱おうとするだけで、とても元気になる。いつでも取り組めることだから、やっていってみよう!

 

思い残しがないように、後悔のないように、全力で取り組むことができれば、それで自分は納得してくれる。それでうまくいけばもちろん嬉しいけど、たとえうまくいかなくたって、ちゃんと自分のために全力を尽くした後には、清々しさが残る。それこそが生きがいなんだな。 

 

 

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