真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

本当の「和」の実現を願う人は・・・

「人皆党有りて、又達(さと)れる者少し」

~大きい堆積の経より①~

 

本当に悟っている人なんて、

ほんのわずかしかいないんだな。

そして、世間の人の目には

残念ながらわからない。

 

895-1

「めいめいの物の見方で 

『ここにこそ真理がある』といって争う人は

誰もみなひとからの非難を免れないにしても

又一方賞讃をもかちとるではありませんか」

 

896-2

「しかしそれではどうしても 

はっきり結末がつかないではないか

いい争うことには例外なく 

その非難と賞讃という二つの結果がつきまとうからだと

私はいうのである

このことをよく考えてあなた方は

いい争うことのなくなった処にある静けさを求めて

人と決して論争などするべきではない

 

897-3

賢い人は 世間の普通の考え方などを 

自分の中へとり入れようとは思っていない

見たり聞いたりすることに盲従せず 

執着を離れている人が

一体何にとりつこうとして世間へ出かけてゆくだろうか

 

意見の合わない人からは非難されても、

意見の合う人には認めてもらえる。

 

なら意見の合う人と仲間になって党をつくれば、

論争も恐れることはないのではないか?

 

この問いに対して、お釈迦様は、

それでは和を得ることはできないと言われる。

 

聖徳太子の言われるような、

「和」は実現できないんだな。

 

本当の「和」の実現を願う賢い人は、

世間の賞讃を得るために、

世間の普通の常識、

みんなが納得してくれそうな、

「こうするべき」みたいな考えを

むやみに取り入れたりしない。

 

世間で見たり聞いたりすることを鵜呑みにしないで、

そのもとには煩悩があることを見抜いて、

見聞きしている。

 

自分の味方を増やそうとして、

世間にとりついたりしない。

 

そして世間を相手に論争なんてしない。

 

聖徳太子

「人皆党有りて、又達(さと)れる者少し」

と言われるように、

こういうことがわかっている人は少なく、

世間の人の目からはほとんど見えないんだな。

 

 

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