真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

煩悩の矢は自然にぬけていく・・・その最も充実した姿とは?

世界と一つになる

~洞窟の八つの経より⑧~

これが、まさに救いです!

5ページに渡る毎田先生の解説は、

何回読んでも足りないくらい。

では、まずガーターから。

 

779-8

「意識する」とはどういうことかをよく知って 

盲目の命の流れを渡り

物事にとりついて心を汚さぬ 

静かな人は 

刺さった矢を抜き 

なげやりに事をせず

しかもこの世にもあの世にも

何の望みもかけてはいない

 

意識するということ。

それはただここに、

自分の世界に閉じこもっているのでなく、

いったん外へ出て行って、

その世界の中に入ってみて、

それを実感して、

自分に持ち帰ることかな。

 

それが、

「意識するということはどういうことかをよく知って」ということなんだな。

 

すべての人が、

それを自覚するかしないかにかかわらず、

すでにこの意識によって生きている。

 

ここで毎田先生の解説から引用します。

世界は万人の内にある。

意識によって人は世界として生きているのである。

世界と共に流れているのである。

私の生きるのは世界が生きるのであり、

世界が生きるのは私が生きるのである。

肝を大きくもてである。

くよくよするなである、

こせこせするなである。

永遠の生命を生きるといっても、

何等特別のことではなく、

万人がそれを生きているのである。

力強いです!勇気が出ます!

そして、「物事にとりついて心を汚さぬ」といったって、

もうすでに、その物事はわが内にある。

 

とりつくどころではない。

ただ暖かく抱きしめ、

育て、

慈しむばかりだと言われる。

 

そうすれば、

そこにはただ永遠の生命が静かに流れゆくのみとなって、

その静けさのうちに、

煩悩の矢はひとりでに抜けると。

 

その矢を抜こうともがかなくても、

自然に抜けるんだと。

 

煩悩も、

永遠の生命の現象として、

それにうち任せてゆくのだと。

 

そして、それは決して、

「どうにでもなれ!」「勝手にしろ!」なんていうような、

なげやりに事をすることではなく、

最も生命の充実したこと。

 

そこにこそ、

生命の尊厳が維持されてゆくと。

 

そうすれば、

もうなにも不平不満は出てこない。

 

あれがだめだから、

これがだめだから、

もっとどうにかしようと望みをかけて

あくせくするようなことは必要なくなる。

 

それどころか、

そんなことは、他の生命に対して失礼なことだと気づく。

 

そして、

一なる真理の世界が目の前に展開してゆくのを見て、

その永遠の生命を楽しみ、

讃嘆するのみとなる。

 

もう、もう、これを読むと、

心がパーッと晴れてくるのがわかる。

 

こんなに感激しておきながら、

世間に行っては、

すぐになにかにとりつかれて、

心を汚してしまう私は、

毎日読んでも足りないくらい。

 

 

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