真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

自分のものにできるものなんて、本当はどこにもない

仮に自分の手元にあるだけ

~老衰の経より②~

806-3

人が「これはわがもの」と思っているものも 

その人が死ねばどこかへいってしまう

このことを明らかに知って 私に従う人は 

ものを自分のものにしようと夢中にならぬがよい

 

807-4

たとえば夢で会った人を 

目が醒めれば もう人は見ないように

それと同じくどんなに好きだった人でも

その人が死んでしまえばもう見ることは出来ない

 

808-5

その人の名を何々と呼んで 

人が現実にその人を見 

その声を聞いた人々も

死んだ人といわれるようになっては 

もう名ばかりが残る

 

人は、 ものを自分の物にしようと夢中になる。

 

でも、本当はものは誰のものでもない。

仮に自分の手もとにあるだけ。

 

「わたしのもの」と言っていた、

「わたし」がいなくなれば、

「わたしのもの」も意味をもたなくなる。

 

もともと誰のものでもなかったことが、

その人の死によって、実証される。

 

物事の真実や、物事の行方や、

そこに働く真理を見ないことは

無知だと言われる。

 

ものを自分のものにしようと夢中になることは、

この無知からくることだと。

 

そして、この世で人に会うのも、

夢で会っているようなものだと。

 

共に凡夫である人たちそれぞれを、

永遠の生命とみれば、

誰かをつかまえて、特別な関係を結んで、

そこに執着するということもなくなる。

 

目が醒めれば、

特別な人なんてどこにもいない。

 

有名無実が物事の真相。

 

どんなに好きだった人だって、

死んでしまえば、

残るのは名前だけで、

そこに実体はない。

 

そこにあるものは移り変わっていく現象だけ。

固定してつかんで「わたしのもの」なんて言えるものは

本当はどこにもない。

 

永遠といえるものは、

この「無常の真理」だけ。

 

 

そのことを死が証明しているのだけど、

その死から目をそむけて、

世間に執着しているわたしたちには、

そのことがなかなかわからない。

 

この経は、

死と向き合うことこそ、

新しい人生の開け来る転機になることを知らせてくれている。

 

そして、この経は、心の解放へと向かっていく。

 

 

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