真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

争うかぎりは、真理は見えない? 目から鱗のスッタニパータ!

真理は主張するものではなくて、体現するもの 

~スッタニパータ 小さい堆積の経より~

 

あちこちで偉い人たちが

言い争っている。

 

「こういうことを知らない人は、愚か者だ!」

「そんなことは無意味だ!間違ってる!」

 

自分が絶対正しくて

それがわからない人は間違っていると言う。

そして、その自分の考えが

どれだけ正しいか、

証明しようとして一生懸命主張する。

 

小さい堆積の経 って、大海の水のような真理を、

人間が一生懸命積み上げて

主張しているようなことなのかな?

 

 

スッタニパータ 小さい堆積の経 では、

ある修行者が、

「偉い人たちは、それぞれ、

『自分が正しい』いや、『私の方こそ正しい』

と言い争っているけど

いったい どれが正しいんですか?」

というようなことをお釈迦様に尋ねる。

 

「それそれ!」と私は思いました。 

みんなそれぞれ、自分が正しいって言い争っているけど、

いったいどれが正しいの?

いったい何を信じたらいいの? 

 

これ、小さい頃からの人生の疑問だったんです。

この小さい堆積の経では

15のガーターに渡って、

お釈迦様と修行者のやりとりが繰り広げられるんだけど、

 

最後のお釈迦様のことばはこれです。

 

893-16

自分の道をしっかり摑まえて論ずるものが 

外の誰を『愚か者』だということが出来よう

外の説を愚かだ 汚れた教だというのなら 

外ならぬ彼自身が 

不和を惹き起す当人ではないか

 

894-17

彼は独断の上に立って 

その説を作り上げ 

世間に出て 論争に憂身をやつす

一切の断定を捨ててしまえば 

人は世間で誰とも争わないで済むのに

 

「群盲象を評す」というお話を思い出すな。

たしか、目の見えない人たちが

自分のさわった象の一部がそのすべてだと思い込んで、

言い争うようなお話。

 

鼻をさわった人は、

「象はホースみたいなものだ!」って主張する。

 

耳をさわった人は、

「象はうちわみたいなものだ!」って主張する。

 

足をさわった人は、

「象は大木みたいなものだ!」って主張する。

 

腹をさわった人は、

「象はかべみたいなものだ!」って主張する。

 

尾をさわった人は、

「象はロープみたいなものだ!」って主張する。

 

そして、「自分が絶対正しい!」

「他の人たちは間違っている!」

そう思い込んで、言い争う。

 

「おもしろいお話だな~」なんて、

半分バカにして読んでいたけど・・・

 

私たちの言い争いも、

これと同じでは???

 

そして、よく考えれば

これ、確かに無理もないお話ですね。

 

だって、この人たちには

自分のつかんだ真実しか見えてないんだから。

 

 

本当は、みんな間違ってなんかない。

間違っているとしたら、

自分だけが正しくて、

他の人は間違っていると思い込んでいること。

 

真理というものが、

人間にはつかみようもない、

大海のようなものだとわかっている人は、

他の人を軽蔑したり、

「おまえは間違っている!」

なんて否定したりすることはないんだな。

 

そんなことをしたら、

自分が不和を引き起こすもとになっちゃうってことがわかっているから。

 

「自分の考えが正しい」

なんていう断定を捨てて、

自分の知らない真理にも、

耳を傾けようとするのかな?

 

真理は人間がつかんで、

「これが真理だ!」なんて言えるものではなくて、

ただその真理の大海の中に包まれて、

その真理を体現するものなんだな。

 

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