真の人と出会って心の解放へ

心の解放へと導いてくれる真の人(本)との出会いの記録。(毎田周一「釈尊にまのあたり」他 聖徳太子・親鸞・宮沢賢治・・・生きてる人も)

お釈迦様には説がない?これまたびっくり!スッタニパータ

「私はこのように説く」ということが そもそもない? 

~スッタニパータ マーガンディヤの経より~

これ、マーガンディヤの経 っていう

経集に出てくることばなんだけど、

私は、これを読んで、

「え~~~???」

って思ってしまった。

これもまた、

青天の霹靂じゃないですか?

 

837-3

「『私はこのように説く』ということが

そもそも私にはないのである

       マーガンディヤよ  と世尊はいわれた

この世にある色々の事にとりついてゆく自分であることを知って

私は色々の見解に接しても 

それを一つも取り上げないことにした

こうして始めて私は自分の中に 

平安を見出したのである」

 

これ、おもしろいんだな。

 

マーガンディヤは、たぶん、

たぶんだけど、・・・

お釈迦様がすごい人だってことはわかる。

それで、どうしたらそうなれるのか知りたい。

 

なにか目的があって、

それを達成するための方法があると思っている。

 

そして、その方法をちゃんと説明して欲しいと思って、

どうにか聞き出そうとする。

 

でも、お釈迦様にしてみれば、

そんな、なにか一定の見解があって、

「こうすればいいよ。」

なんて言えるものはいっさいない。

 

納得できないマーガンディヤは、

「あなたは、そんな見解に捉われないで、

『心の平安』を見出したといわれますが、

賢い人たちはみんな 

そういうふうに説いているんですか?」

みたいなことを質問する。

 

でも、お釈迦様は・・・

「だ~か~ら~、

説くことはないって言ってるのに、

まだ『説くのか?』と聞いてくる、

しつこいやつだな~!」

・・・とはならない。

 

こんな愚問は無視して、

マーガンディヤを解放しようとぐんぐん先に行かれる。

 

839-5

「見解とか 学問とか 知識とか

      マーガンディヤよ と世尊はいわれた

そして徳行とか 

そういうもので人が清らかになるとは私はいわない

しかし又 無見解や 無学や 無知や

そして不徳や 非行などによっても 

人が清らかになるとは 私はいわない

そういうことをすべて捨てて 捉われず

拠りどころなど 何も持たず

この世のことに 少しも望みをかけぬがよい

 

「見解なんかに捉われない」って言われると、

「じゃ、無見解でいいんだ~」となったり、

 

「学問」を否定されると、

「私は学問なんかに興味はありません。

お釈迦様もそうおっしゃってます。」

なんて主張してみたり、

 

「徳行では助からないよ。」と聞くと、

「じゃあ、悪いことしてもいいんだ~!よし、してやろう!」

なんてことになったりする。

 

こんなのは、どれも不自然なこと。

そして最後は・・・

 

「よし、なんにも捉われないようにしよう!」なんて、

「捉われないようにする」

ということに捉われてしまったりする。

 

見解も無見解も、

学問も無学も、

知識も無知も、

徳行も非行も、

同じ一人の人の中に同時にあるのが、

人間の自然な姿で、

お釈迦様はこの自然な姿に

解放しようとされるんだな。

 

お釈迦様の「無」というのは、

なんにもないことじゃなくて、

ありのままのそのままの、

自然のままってことなんだな。

 

このあとも、まだまだマーガンディヤは、

納得できずに、

お釈迦様のおっしゃることを、

「こんなのは、人を惑わす教だ!」なんて言い出す。

 

「あ~おもしろい! マーガンディヤって頭かたいな~」

・・・なんて、

他人事みたいにおもしろがって読んでいる私に、

 

「おいおい、マーガンディヤはおまえのことだぞ!」

 

って・・・ささやかれる。

 

いつも最後は、自分に鉄槌が下される。

それがスッタ・ニパータのおもしろいところ。

 

これ、真理にぶつかる喜びなんだな!!

 

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